二十二


 

 




 立ちつくすピーターを見ながら、友梨はやっと理解した。もっとも変化を嫌いながら、誰より大きく世界を変えた、ピーターの矛盾を。逃げ続けながらしがみつこうとしている、ネバーランドの核となる存在を。
 その気持ちが、わかると思った。なぜだろう、だけど知っている。焦り、戸惑いながらも諦められない、その気持ち。いつまでも変わりたくないのに、同じでいたいのに。
「ネバーランドにはじめの変化をもたらしたのはおまえだよ、ピーター。おまえは思ったはずだ。成長したい、エメリンと釣り合いたい、大人になって今より美しくなったエメリンを見てみたい、とね」
 それでもネバーランドの時は動き出した。もう止まらない。
「黙れ! そんなはずはない。僕は、大人になんか――」
 友梨の中でなにかがはじけた。思わず手を差し伸べていた。
 ピーターが友梨を見つける。目が合うと、考えるより先に口が動いていた。
「怖がることなんてない。ピーター、大丈夫だよ。だって、大人になったって、夢は見られるもの!」
 やっとわかった。見つけた。どうして気がつかなかったのだろう? 答えはずっとそこにあったのに。
 怖がって、悲しんで、諦めてしまったのは、あたしだ。
 それでも忘れられなくて、夢を見ていたんだ。
 なぜか不気味に響いた人魚の言葉。あれはあたしのことだった。

 ――いつまでたっても足ぶみばかり。時間を止めているのはだあれ?

 鈴の音がした。

「名倉のこと好きなんだ」
 生まれて初めて告白を受けた。
 忘れもしない、中学二年の一学期、期末テストが終わってすぐの出来事だった。あとになってなんであの日だったのって聞いたら、テストの間中、あたしのこと考えてあんまり勉強できなかったからだって、もう告白するしかないって思ったからだって、照れながら彼は言ったっけ。
「えっと、なんで?」
 あたしはまずこう質問した。それまであまり話したことがなかったから。掃除を手伝ってくれたりとか、あったけど、親切な人だなぁってぼんやり思ってた、それだけだった。
「その、一年の時、夏休みの宿題がさ、三学期になって職員室前の廊下に張られてただろ。おまえの絵。あれ好きだったんだ。すごく綺麗で、いろんな色が混ざってて、なんていうか……これ同じ景色を俺も見てたはずなのに、なんで違うんだろって。こんなふうに世界が見えるなんてすごいなって。うまいって感心したっていうよか、すげえなって感動したっていうか」
 その言葉は素直に嬉しかった。だって、巧いね、上手だねっていつも言われてきたけれど、好きだ、なんて言われたのは初めてだったから。
「それで名前を覚えたんだ。今年同じクラスになってから、なんか見るようになって、気になって。それで、つまり……好きになったんだ」
 その告白はついさっきまで必死に頭に詰めてあったはずの連立方程式とか、自立語とか、なんと立派な平城京とかを全部吹き飛ばしてしまった。あたしの頭の中はからっぽになって、ごちゃごちゃになって、そして気がついたら夏休み会ってくれる? って言われてうんって答えていた。
 付き合っていたのは結局、二週間足らず。デートは一回きり。それも、たくさんの彼の友だちと一緒だった。なにもかもうまくいかなかった。今ならわかる。彼らはあたしを排斥しようとしていたのではなく、「彼女」を連れてきた友人を無邪気にからかっていただけなのだと。だけどその時のあたしには居心地が悪くて、みじめで、辛くてたまらなかった。
 もう誘わないで、と言って泣いた。新学期になっても彼を避けた。あたしは、あの時軽い気持ちで彼の告白を受けたことを、卒業までずっと後悔していた。
 彼を傷つけたこともわかっていたのに、最後まで謝ることはできなかった。
 いつもそうだった。あたしは逃げ続けていた。受かると言われた高校しか受けなかったし、友だちと同じ人を好きになった時は、どうせ自分はだめだからと諦めた。絵で食べていくのは無理だと周囲から諭されて、平凡な道を選んだ。
 そうだ、これは、はじめっから夢だったんだ。ネバーランドのあたしが忘れていたのは、未来だ。
 ここにいるのは過去のあたしだ。

 友梨は目の前の景色が遠ざかっていくのを知った。乾ききらない水彩の絵に水を落としたように、世界の色が滲んでいく。足元からすうっと現実が近づいてくる。
 それでもまっすぐ前を見ようとした。まだ夢を見ようとした。
 エメリンがなにか言っている。聞こえない。その表情すら読み取れない。友梨は手を振った。さよなら。行ってらっしゃい。
 そうして、何も見えなくなった。
「人は未来を望まずにはいられない。そのことに気づいたら、おまえももうネバーランドにはいられないのさ」
 船長の声が聞こえる。ぐるぐると回っている。
「ティンカーベルとの契約を切って、ここを出て行きなさい。なに、ネバーランドはまた生まれるさ。幾度でも、幾つでも」


 気がつくと、友梨は階段の踊り場に立っていた。滑り止めのつけられた、懐かしい中学校の階段だ。
 こんなに大きな忘れ物をして、今まで気が付かなかったなんて、本当に不思議だった。
 運動場から聞こえる、ホイッスル。にぎやかな笑い声。ランニングの音。放課後の空気。全ては戻らない、過去の記憶だ。
 間近で鈴が鳴り、ちょうど頭の高さくらいに、光の球が現れた。
「ティンカーベル……?」
 友梨はそっと手を伸ばした。触れるか触れないか、ぎりぎりのあたりで止める。心なしか、その光は暖かかった。
「ユリ」
 光は、空から降ってきたあの少女の声で語りかけた。
「ティンカーベル! 無事だったの」
「ええ。ありがとう、あなたたちのおかげよ」
「そんな……。あたし、何もできていない」
 涼やかな鈴の音は、まるで笑っているようだった。
「わたしは沈んでしまうと思っていたけれど、ちゃんと岸に着けたみたい。大切な人をみんな、無事に降ろすことができたわ。あなたが力を貸してくれたからよ。わたしはやっと、この役割を終えることができる」
 光は、徐々に弱くなっている。友梨はあわてて聞いた。
「でも、ティンク、あなたはどうなるの?」
「わたしはもういいの。あの子をこの世界に繋ぎ止めてしまった。ずうっと長いこと、一緒にいられたわ。だからもう、いいの」
 光が小さくなるのに比例して、学校も少しずつぼやけ、モノクロになっていく。
「わたしには選べる未来なんてなかった。ただ夢をみることしかできなかった。でも、あなたは違うわ」
 最後の瞬間、友梨はティンカーベルだったその少女の姿を見た気がした。
「さようなら、ユリ」





           



2010.12.23 inserted by FC2 system