なにもかもが恐ろしいほどにそのままだった。
 あれほど長いように感じた日々は、ただの夜で、なにひとつ変わらない朝が待ち受けていた。
「友梨ーっ。まだ降りてこないの、友梨!」
 母の声が友梨を我に返らせた。一体どれだけの間、ぼうっと考え込んでいたのだろうか。時計を見ると、けっこうやばい時間だった。
「え、え、ええー! ごはん……いやその前にメイク!」
 あたふたとベッドを降り、洗面所に駆け込む。母の声が追いかけてくる。
「少しくらい寝かせといてあげようと思ったのよ。昨日も遅くまで残業だったんだし」
「うれしいけど! あと五分早く声かけてくれたら!」
 座ることのできるいつもの電車には間に合わない。その次の電車だってギリギリだ。朝食は職場近くのコンビニでゼリー飲料でも調達するとして、髪はまとめるだけにして――今後の行動を計算しながらタオルで顔を拭く。
「ごはんは? おにぎり作ろうか?」
「いい!」
 ストッキングをはき、ブラウスに袖を通し、ボタンをとめながらふと思いついて言う。
「そうだ、お母さん。あたしのイーゼルとか、どこにしまった?」
「は? なによいきなり」
「今度、休みの日にでも描いてみようかと思って。捨ててないよね?」
「物置じゃないの?」
「オッケー。あるならいいの。それじゃ、行ってきます」
 友梨は超特急で自転車にまたがった。少しきつい上り坂の近道を全力でこいでいくと、中学校のそばを通った時ちらりと校舎が見えた。そういえば、あの夢。
 赤信号に驚いて急ブレーキをかける。考え事をしている場合ではなかった。傍らの歩道橋では、信号なんてモノに影響を受けることなく、旗を持ったおばさんに先導された園児たちが手を繋いで歩いていた。おそろいの黄色いぼうしが並んで動く。ついつい、ニナやわんぱく三人組のことなど思い出してほころんでしまう。
 青になった。だめだめ、と思考を切り替え、左右に気を配りつつ、友梨は大通りを横切った。ここからがラストスパートだ。角を曲がって、自転車置き場に突入、カゴから鞄を引っ張り出してダッシュ。改札にまだ降りてきた人が殺到してない。いける。ヒールが走りにくい。間に合え。間に合え。間に合った!
「ふはぁー」
 背後で扉が閉まる。駆け込み乗車はご遠慮ください、のアナウンスが流れた。ゴメンナサイ、と心の中で謝る。苦しい。さすがに息が切れた。全力疾走は久しぶりだった。
 しかしまあ、あとは二十六分立っていればいいだけだ。
 友梨はひと安心して思考を戻そうとしたが、もう夢はだいぶぼやけていた。
 よくよく考えてみればおかしなことだらけだ。ピーター・パンというのはもっと葉っぱっぽい服を着ていたような気がするし、毒入りのケーキも出てこなかったし、だいたい、フック船長はワニに食べられて死んだはずではないか。
 それでも、あのネバーランドはあのネバーランドで、確かに在ったという気がした。
 たくさんの絵を描いた。大変なこともあったけれど、楽しかった。忘れていたことを、いくつも思い出せた気がする。
 エメリンと一緒ならきっと、ピーターは大丈夫だ。二人で何とかやっていくだろう。
 ああ、楽しみだ。週末になったらすぐに絵を描こう。どこかに出かけよう。お弁当は何にしよう。
「名倉?」
 ふいに呼ばれて、友梨は声の方に顔を向けた。つり革につかまった男の人が、表情を明るくする。
「やっぱり、名倉だ。久しぶり。俺おぼえてない?」
 どこにでもいそうなサラリーマンの格好だが、人なつっこそうな表情が友梨の記憶を揺さぶった。
「えっと……朝川、くん」
「そうそう」
 朝川和幸だった。忘れているはずがなかった。自信がない風を装いたかったのではなく、ただ驚いていた。それというのも――
「驚いたな。実は今朝、君の夢をみたとこで」
 友梨が思ったのと同じことを朝川は言った。本当に、奇妙な偶然だ。あたしも少しだけ、なんて言うと誤解されそうなのでやめる。
 友梨が黙っていると、朝川は困ったように笑った。
「あー、ごめん、いきなり変なこと言って。元気だった?」
「……うん。朝川くんも、元気そうだね」
 しまった、今朝のあたしは手抜きモードなんだった。友梨はガラス窓に映った自分自身にがっかりしてうつむいた。
「俺、大学は下宿してたけど就職してこっちに戻ったんだ。いつもこの電車なんだけど、名倉は?」
 友梨はまともに聞いていなかった。下げた視界の中にあったものに目を奪われて。
 朝川のカバンについたキーホルダーの鈴。それがチリン、と鳴った。鈴と一緒にぶらさがっているのは鍵で、キーホルダーとしては正しい使い方かもしれなかったが、その鍵はおそらくただの飾りだ。古めかしい、銀の鍵。ピーターの持っていたあの魔法の鍵のような。
 友梨は顔を上げた。朝の日差しが窓から彼の髪を照らして、茶色く浮き立たせている、そのくるくるした感じをじっと見ていた。
「パブロ?」
 唐突な友梨の一言に、朝川和幸は一瞬にやりとして、そして真面目にこう答えた。
「わん」
 友梨はこらえきれずに吹き出した。








           


2010.12.29 inserted by FC2 system