二十


 

 




 絵を描いているうち、眼下に細い川が流れていることに友梨は気づいた。川があるなら、それをたどって下流にいけば、いずれ海に着けるかもしれない。そこで二人は、川を目指して山を降りはじめた。もちろん、スケッチブックはしまわず、持ったままだ。
 武器を捨てたおかげか、恐竜や猛獣などに出くわすことはなかった。
 ただ、山道はそれだけで歩きにくい。たぶんこの方向だろうと思って進んだら落石で道がふさがっていたり、行き止まりだったり。長距離を戻らなければならないような時は、絵を使って楽をした。そのうち、分かれ道では必ず小休憩してスケッチしていくようになった。ちょうどセーブとロードを繰り返しているような感覚だ。そのセーブにやたらと時間がかかるのが難点だが。
 どうにか山を降りて川岸にたどり着いた時には、すでに影が長く伸びはじめていた。山の中腹から見ていた時は糸のようだった川だが、間近にするとかなりの幅があった。友梨はプールを思い浮かべながら、ざっと百メートルはありそうだ、と推量する。
「こんなに大きかったんだ。とりあえず――え?」
 ぐらりとめまいが襲ってきた。いや、地震だ。友梨はとっさにエメリンを支えた。実際にはしがみついただけかもしれなかったが。
 揺れが止まった。二人は顔を見合わせた。すぐにおさまりはしたが、安心できない。
「時間がないっていうのは、本当みたいね」
 エメリンは厳しい表情をした。
「うん、急ごう。ええっと、下流に行けばいいんだから……」
「いったん戻ってボートを取ってくる、っていうのはどうかしら?」
 ここまでの行程はほとんどが下り坂だったうえこまめに休んでいたので、疲労はそれほどでもなかったが、膝の痛みがかなりのものだ。友梨は名案だ、と思った。流れがあるので、海の時より漕ぐのも楽だろう。
「それ、いい! じゃあさっそく、ここを描いておかなくちゃ」
「途中に滝とかがなければいいけどね」
 エメリンが不穏な一言を発したが、どう考えてもボートで行く方が歩くより速く楽な上、見下ろした限りではそういうものはなかったということで、協議の結果、川下りを決行することになった。
 川辺の絵を仕上げてから、二人はいつものように手をつないで、夏の入り江に戻ろうとした。だが、いつまでたっても、足元がふわりと浮くあの感覚が来ない。飛べない。
「え、なんで?」
 子どもたちも一緒になって、何度も効果を試したはずの砂浜の絵だ。それなのに、引き込まれない。
 どれだけ試しても同じことだった。描いたばかりの川辺の絵も試してみたが、こちらは今まで通りに飛べた。砂浜の絵だけがうまくいかないのだ。
「もしかして、あっちで何かあったんじゃ……」
 エメリンは額をおさえた。友梨も同じことを考えていた。だが、二人で取り乱しても仕方がない。真っ青になっているエメリンの肩に手をやり、少しでも気持ちをなだめようとした。
 そうとばかりは言えないはずだ。たとえば、そう、たとえば。別の可能性にどうにか思い当たって、友梨はつとめて明るく声を出した。
「いや、ひょっとして、一方通行になっているのかも。ほら、ティンカーベルの粉だって、こっちでは効果がなかったりしたし。こっちからあっちに飛ぶのはまだ試してなかったでしょ?」
 確認できないことなら、ポジティブに考えるべきだ。
「ボートなら、きっと受付にもあるよ。あそこで借りよう。ね」
 エメリンは幾度もうなずいた。そうすることで自分自身を納得させているようだった。
「そうね。……今は、進むしかないわね」
 なにかを決意したように顔を上げたエメリンに、友梨もうなずきを返した。
「そうだよ。まずはできることから。ね!」
 エメリンはじっと友梨を見つめて、それから微笑んだ。
「ありがとう。私はだめね。守るなんて言っておいて、あなたに頼ってばかりだわ」
「そ、そんなことないよ! この絵はたまたま……、それに、あたし一人じゃ絶対、ここまで来られなかったし! 無理だし!」
 しっかり者のエメリンにそんな風に言われると、照れてしまう。
「あなたがいてくれて心強いわ。本当よ。ねえユリ、あなたって……こんな風に言うと怒るかもしれないけど、母さんみたい」
「ええー!」
「あ、やっぱりおかしい? そんな顔しないでよ、許して」


 入り口にとって返した友梨とエメリンは、悩んだ末、身につけているものなら一緒に持って行けるだろうという推論の元、ボートを体にくくりつけて絵をのぞきこんだ。
 果たして、二人はボートの持ち出しに成功した。念のために借りてきた救命胴衣も身につけ、二人は無事に舟の旅を開始した。
 ことは驚くほど順調に運んだ。二人を乗せたボートは、羽が生えたように静かに水上をすべり、心配した滝もなく、波乱といえば幾度か流れを割る岩にぶつかりそうになった程度だった。移り変わってゆく景色に感嘆する余裕すらあった。目を驚かせてくれた珍しい事物は、不安を消すことはできないまでも、一時忘れさせてくれるだけの効果をくれた。
 どうやら海が見えてきたのは、日の暮れかけた頃だった。河口近くで二人はボートを岸に引き上げ、右か、左かを話し合った。もちろん、このエリアが島状になっている以上、海岸線に沿っていけばどちらに進んでもいずれ「港」に着くはずだ。だがもし左手側のすぐ近くにあるとすれば、右に行くと大きな遠回りになってしまう。逆もしかりだ。
 日はじきに沈もうとしている。これからは流れに頼ることもなく、手の力だけでボートを漕がなければいけない。そして、ささやかながら重要な問題として、もう紙が残り少なかった。友梨の手持ちのスケッチブックは、すでに裏まで使用していたが、それもなくなりそうなのだ。
 目の前の風景を描き写しながら、友梨はどうすればいいかと考えた。この先暗くなれば絵も描けない。
 その時ふと、なにかが脳裏をかすめた気がした。なのにその正体がわからない。友梨は必死で心の中に落っこちた答えを拾おうとした。
 こんなとき――があれば……
 それは、国語のテストで簡単な漢字が思い出せない時のような歯がゆさだった。確かに答えを知っているはずなのに、それが出てこない。たいていは用紙を回収された後で思い出すのだが、今はそんな悠長な場合ではなかった。
 なにか、あったはずだ。こんな時、行き詰まった時、どうしていいか迷う時、道を示してくれるようななにかが。
 友梨は額を膝に押しつけてうなった。考えろ、考えろ。
「ユリ? どうしたの?」
 水筒のお茶を飲んでいたエメリンが心配して声をかけてきたが、手でちょっと待ってと示す。
 都合の悪いことを埋め合わせてくれる、助けてくれるもの。困難だったことがするっとうまくいってしまうような、スケッチブックの魔法のような――
 ひらめいた。
「パブロだ!」
 友梨はがばっと顔を上げた。エメリンが驚いて周囲を見回す。
「え、えっ? どこに?」
 こんなときパブロがいれば。それだ。スケッチブックを届けてくれたのも、子どもたちと仲良くなるきっかけをくれたのも、パブロだった。
 足りないのは、必要なのは、パブロだ。
 友梨は描きかけていた風景の中に、茶色に白の混ざったふさふさしっぽの犬を描き足した。すると色をのせおわるのとほとんど同時に、元気のいい鳴き声がした。
「あら、ほんと。パブロじゃないの!」
 パブロは誇らしげに吠えた後、ついておいでとばかりに歩きはじめた。
「行こう、エメリン」
 友梨はてきぱきと荷物を片づけ、ボートは置きっぱなしにして立ち上がった。
「え。……え?」
「パブロについていけば、大丈夫だから」





           



2010.12.04 inserted by FC2 system