十九


 

 




 ごつごつした岩肌の切り立った崖に着地して、ピーターは二人を降ろした。エメリンの銃を崖下に放り投げ、荒く息をつく。
「どういうつもりだ! 自殺でもする気なのか」
 ありがとう、と言いかけた友梨は黙った。
 ピーターがつかつかと歩み寄る。
「おまえ、なぜこんなところにいる。どうやって入ったんだ」
「あなたに説明する必要あるの?」
 頭を押さえながらのろのろと上半身を起こしたエメリンが、友梨の代わりに答えた。
「エメリン! 怪我はないか」
 差し出されたピーターの手を取らずに、エメリンは立ち上がった。
「どういうつもりって、訊きたいのはこっちの方よ。あなたは一体なにをしているの?」
 ピーターは明らかに怯んで、語気を弱めた。
「なにって……、もちろん、君を探してたんだよ。どうして家で待っていないんだ? ここは危険だ」
「この扉、作ったのはあなたでしょ? 危険だっていうなら直しなさいよ」
「あんな武器を持っていれば、強いのが出てくるのは当たり前だ! ここじゃ希望に合わせた装備が出されて、それに応じた冒険ができるようになってる」
「知らないもの、そんなの!」
 エメリンはわめいた。
「だいたい、扉の世界は動かせないんじゃなかったの?」
「こいつがいるからだ」
 ピーターに視線を投げられて、友梨は反射的に身をこわばらせた。
「また力が強くなったようじゃないか、契約もなしにこれだけやってのけるとはね。僕の役に立つ気になったかい?」
「やめなさい、ピーター。それを決めるのはあなたじゃないわ」
 エメリンが友梨をかばって立ちふさがる。
「エメリン、どうしてユリの味方をするんだ」
「逆よ。ユリが私に協力してくれているの」
「君まで僕を裏切るのか? 僕とずっと一緒にいるって約束したじゃないか!」
「それとこれとは関係ないでしょう!」
 ここまでくるとただの痴話喧嘩だった。部外者が口を差し挟む余地もない。
「あなた、ネバーランドのことを心配しているのが自分一人だとでも思っているの? 助けてくれたことにはお礼を言うけど、これ以上は放っておいて。あなたは言いなりになってくれる他のティンカーベルでもなんでも探し回っていればいい。私たちは私たちでネバーランドを救う方法を見つけるわ」
 厳しく言い放って、エメリンは友梨の手を引いた。
「行きましょう、ユリ」
 ピーターは慌てたように回り込み、エメリンの肩をつかんだ。
「だめだ! ティンクの光が弱くなっているんだ。何が起こるかわからないんだぞ。もう時間がない。戻るんだ、エメリン!」
「私に命令しないで!」
 エメリンはピーターの手をぴしゃりと振り払った。ピーターは信じられないという風に呆然とエメリンを見ていた。
「他の誰かを犠牲にして、震えながら待っているなんて私はイヤよ。終わりが避けられないとすれば、みんなが無事に出られる方法を探すわ。あなたとは違うの」
「ま……待ってくれ、エメリン」
「あなたがついてきて守ってくれるの? ピーター。そのつもりがないのなら放っておいて」
 エメリンはあくまで冷淡だった。ピーターの顔が歪む。瞳の色が紅く燃え上がる。
「そこまで言うのなら、好きにしろ! なにがあっても知らないからな」
 ピーターは白い扉を出現させ、癇癪を起こした子どもと同じように荒々しく閉めて出て行った。用の済んだ扉は淡い光になって空気に溶ける。
 友梨はなんと言っていいかわからずにエメリンを見た。深く長いため息をついて、エメリンはぺたんと地べたに座った。吐いた息と一緒に気力も逃がしてしまったようなくずおれ方だった。
「だ、大丈夫? やっぱり、どこか怪我してるんじゃ……」
 友梨も膝を折って、エメリンを支えるように手を伸ばした。だが、友梨の予想に反して、エメリンは怒りに震えていた。こぶしを握りしめ、今にもそれで地面を殴りつけそうな勢いだった。
「あんの……、分からず屋っ! わがまま、自分勝手、薄情者!」
 完全に頭にきた様子でさんざんに罵る。触れてはいけないような気がして、友梨は手を引っ込めた。
「恥知らず、甘ったれ、偏食の頑固じじい! そうよ。ほんとは年寄りのくせに、どうしてああも子どもじみてるの! ……まったく」
 言い足りたのかネタが尽きたか疲れたか、エメリンはそこで言葉を切って、肩で息をした。両手で目から額までを覆い、唇を引き締めてはまた開いて、息を継ぐ。
 本来なら、ここで腹を立てるべきは友梨の方だったかもしれない。けれど、エメリンが怒ってくれた分、どうでもよくなっていた。友梨は苦笑すら浮かべて、怒りを収めようとしているエメリンの背中を優しく撫でた。
 やがて、落ち着いたらしいエメリンが、ぽつりと言った。
「ごめんなさい。あなたには、面倒ばかりかけているわね」
 しゅんとした表情に、友梨は首を振った。
「ううん! あたしも、戦車とか乗ったら便利かもってちょっと思ってたし」
 エメリンは瞬きした後、くすりと笑ってくれた。友梨もほっとして気を緩めた。


 ピーターが運んでくれたおかげでだいぶ移動したが、目的地に近づいたのか遠のいたのかはわからない。景色は広く見渡せるが、海らしきものが見えないのだ。今いる山がシェイが描いてくれたうちのどれなのかも謎だ。
「ねえユリ、この場所を描いておいてくれる? ピーターが私たちを降ろしたということは、ここはきっと安全なのよ。なにかあったときそれで戻るようにしましょう」
 エメリンの提案に同意して、友梨はスケッチブックを広げた。あまり時間も取れないので、彩色は色鉛筆ですませる。
 風景を写し取っている友梨の隣で、エメリンはぽつぽつと語った。
「私の母さんは、私がまだ幼い頃に亡くなったの。父さんが心配してくれているのはわかっていたけど、私は寂しくて、夜は特に寂しくて、ひとりでベッドにもぐり込んでは泣いていたわ」
 友梨が聞きそびれていた疑問を、もう一度ぶつけてみたのだ。エメリンはどうしてネバーランドに来たの?
「そんな時、ピーターが私を迎えに来たの。私の家の女の子はみんな、ある年頃になったらネバーランドに招待されるんだってピーターは言ったわ。でも母さんは私にその話をしてくれる前に死んでしまったのね。ピーターは、私を連れて行ったら父さんが悲しむだろうから、連れて行けないって言ったわ。でもそのかわり、毎晩やってきて、母さんの話をしてくれたの。お婆様の話も、おば様の話も、会ったこともない曾お婆様の話まで。ネバーランドで過ごした、少女の頃の母さんの話はとても素敵だった。私はネバーランドに憧れたけれど、ピーターの言う通り、父さんをひとりぼっちにしたくはなかったから、毎晩ピーターを待つだけだったわ。そして私はすっかり元気になって、彼はもう大丈夫だねって、そう言って来なくなった」
 一週間か、十日くらいだったかしら。長い三つ編みをいじりながら、エメリンは懐かしそうに言った。
「いつか、父さんが私をひとりで旅行に出しても平気なくらい立派になったと認めてくれるようになったら……、そうしたらネバーランドに遊びに行くわって、約束したの、お別れの時。しっかりしようって、父さんを支えられるくらい一人前になろうって、それを励みに、私は強くなろうと思ったの。でも、いつの間にか、時間が流れると……ピーターのことはほとんど思い出さなくなってた。きっと、幸せだったからね」
 友梨は手を止めて聞き入りそうになっては、慌ててまた紙に向かった。
「だけど、父さんが死んで……事故だったの。学校から病院に駆けつけた時にはもう意識がなかった。さよならも言えなかったわ。私はひとりになって、そして、ピーターのことを思い出したの。泣きながら、会いたい、会いたいって思ってた。そうしたら通じたの。ピーターは来てくれた。初めて出会った時と変わらない姿で。私は、もう彼より大きくなってしまっていたのにね。……奇跡だと思ったわ。もしも君が望むなら、一緒においでって……そう言われて、うなずいてた」
 いつしか、エメリンの目に涙が光っていた。
「本当は優しい人なの。だけど変わってしまった」
 諦めたように言うエメリンは、それでもピーターが好きなのだろうと、友梨は思った。
 ネバーランドを守ることに必死で、人を思いやることを忘れてしまったみたいなピーター。だけど、助けに来てくれた。危険に向かおうとするエメリンを心配していた。そう、ピーターは今でも優しい。エメリンにだけは優しい。
 それに気づいたら――不思議なことに、少し嬉しかった。同じくらいにちくりと痛かったけれど。





           



2010.11.28 inserted by FC2 system