十七


 

 




 久しぶりに、納得のいく絵が描けた。勘が戻ってきた、とでも言えばいいだろうか。
「すごくいいじゃない! これ、もらってもいいかしら?」
 朝食の後でエメリンに見せると、いたく気に入られた。もちろん、と破こうとすると、待ってと止められる。
「せっかくだから、サインを入れなさいよ。端の方に」
「ええっ。そんな本格的なものじゃあ……」
「いいから、いいから」
 友梨は言われた通りに筆記体で名前を書き入れ、慎重に破いてエメリンに絵を渡した。
「ありがとう」
 エメリンは嬉しそうに受け取ると、いそいそと小屋の方へ向かった。
 友梨はそれを見送ってから、さて、今日も扉の中へ行く方法を考えながら貝拾いを続けようか、と浜の方へ歩き出した。
 入り江に引っ越したいというエメリンの要望は、貝拾いに通いやすくするためという算段もあったようだ。どれだけ効果があるかはわからないし、このペースで拾い続けるとすぐに尽きてしまいそうなくらいなのだが、何事もやらないよりはましである。
 いい気持ちで伸びをした友梨は、その姿勢のまま固まった。
 浜辺から、紙を手に持ったエメリンが近づいてきたのだ。友梨は幾度も瞬きした。どう見てもエメリンだった。
「え、あれ?」
 振り向いて小屋の方を見る。確かに今、あっちへ行ったはずなのに、いつの間に戻ってきたのだろう? ついに時間までおかしくなったんだろうか?
「ユリ!」
 駆けつけたエメリンは、興奮した様子でまくしたてた。
「私、絵を飾ろうと思ったの。それでどこにしようかと考えてこれを眺めていたら……、あなたも、ほら、やってみなさいよ」
 わけがわからないまま絵を押しつけられて、友梨はじっとそれをのぞき込んだ。別段変わったところはない。が。
 足元の地面が、一瞬消えた。友梨は転んだ。砂を払いながら起きあがる。
 そこは、早朝から座り続けていた、絵を描いていた、まさにその場所だった。
 言葉を失っていると、エメリンが追いついてきた。
「ね! やっぱりそうだわ! これ、魔法の絵よ! 近づいて見ると、描いてある場所に移動できるの」
 頬をばら色に輝かせたエメリンが、はじめて年相応に見えた。なんだかかわいい。同い年なのに、そんなことを思うのも変だが。
「えっと……えー、ほんとに? えー……」
 半信半疑で自分の描いた絵を見る。こんなことがあっていいのだろうか。いや、妖精がいる世界なのだ。もうなんでもありだ。
「あなたの力は、ほんとにすごいわ。ピーターが目の色を変えるはずよ。ねえ、これで扉の中に行けるんじゃない?」
 エメリンの指摘で、友梨ははっとした。そうだ。もし同じようにできるなら、好きなところに簡単に行けるではないか。
「そっか! これなら」
 言いかけて、冷静に返る。
「あー。でもあたし、冒険の扉に入ったことは……」
「……そうよね。知らないものは描けないわよね……」
 二人で肩を落とす。シェイに逐一訊いたとしても、あの不器用な言葉たちから詳細な図が描けるとは思いがたい。
 友梨が見てきたのは、安らぎの扉と秘密の扉、ふたつだけなのだ。そこから別の扉に行く方法はない。あるかもしれないが、知らない。
 そもそも、お客さんの入ってくる扉は一方通行で、閉じると消えてしまうのだから――
「そうか」
 友梨は思い至って、声をあげた。
 あるではないか。鍵がなくても通れる、すべての扉に通じている場所が。
「入り口! あそこに戻ればいいんだ」
「え、入り口って?」
「お客さんがはじめに扉を選ぶ場所。あたしあそこを通ってきたから、ちゃんと覚えてる。入場門みたいな大きなアーチがあって、ようこそっていろんな言葉で書いてあるの」
 友梨はさっそく画材を揃えて、絵を描くことにした。さすがに細部までは思い出せない。特に、万国の文字など書くのは不可能だ。だが、これは絵なのだ。写真のようにすべてを写す必要はない。
 パースをとって主線を鉛筆で起こし、絵の具とクレヨンで彩色する。手を動かしていると、連鎖的にどんどん思い出してきた。単純なシンメトリーの構図だ。五つ並んだ扉の色は、右からセルリアンブルー、チャコールグレイ、コーラルレッド、レモンイエロー、エメラルドグリーン。
 友梨が絵を描いている間に、エメリンが子どもたちを集めて事情を説明した。みんなの協力で実験してみた結果、全員が一緒に跳ぶのは不可能ということもわかった。紙のサイズからして、同時にのぞき込むということができないので、自明の理ではある。
 確実に同時に飛べるのは二人までだろうということで、結局、他にも立候補はあったのだが、友梨とエメリンの二人で行くことになった。留守を任されたラウラは胸を叩いて請け合ってくれた。
「本当に大丈夫かな……」
 どうにか描き上がったが、これで跳べなかったらアウトである。スケッチブックに残っていた森の家や秘密の扉の絵では、どれだけ凝視しても何も起こらなかったようなのだ。不安要素は満載だ。
「ユリ、まだのぞき込んじゃダメよ!」
「わ、わかってるって」
 念のためそれぞれの鞄――友梨は通学用のショルダーバッグ、エメリンはリュックサック――に画材を詰め、弁当を詰め、着替えを詰め、二人は手をつないで絵の前に立った。開いた方の手でそれぞれに紙の端を持ち、せーのでじっと見る。視界いっぱいを絵で埋める。
 送り出してくれる声が急に途切れ、二人は仲良くすてんと転がった。どうにも足元が浮くので、バランスを保てないのだ。しかし成功だ。友梨は五つの扉を懐かしく眺めた。本当に戻ってきたのだ。
「ここが……。うまくいったわね、ユリ!」
 友梨は巨大なバウムクーヘンを半分にしたような文字列を踏んだ。この場所がスタートだった。鈴の音を聞いて目を開けた、あの時。
 今は、耳を澄ませても、何も聞こえない。
「ティンカーベル、どうしてるのかな」
 白い、ひたすらに白い宙を見上げる。エメリンもつられたように視線を上向けた。
「ティンカーベル?」
 呼びかけても、返事はない。音はただ果てなき空白に吸い込まれていく。
 幾度目かの呼びかけで、エメリンは静かに首を振った。
「ユリ、急ぎましょう。この扉でいいのよね」
 セルリアンブルーの扉は、難なく開いた。二人が通り抜けると、ひとりでにぱたんと閉まって消える。
 ジジッという音のあと、ランプが次々と点いて視界が広がった。薄暗く狭い灰色の部屋と見えたものは、片方だけをとらえたもので、友梨たちは長方形の端にいたのだった。左手側はすぐ壁になっているものの右手側を仕切っているのは背の低いカウンターで、その向こうの奥行きはかなりあり、広さは体育館くらいありそうだ。
「どうやら、これが受付ね。シェイたちはここで仕事をしていたんだわ」
 エメリンはカウンターを乗り越え、装備を物色しはじめた。友梨もあたふたと追いかける。
 まったく物騒な場所だった。あきれるほどの棚が並んでおり、その中には所狭しと品物が放り込まれている。
 ふとのぞきこんだケースの中に、爆弾のようなものがすし詰めになっていて、友梨はおののいた。ある棚は全段が剣で埋め尽くされ、どれも少しずつ違っていた。他にも弓、ヌンチャク、銛、ナイフ、鞭、斧、ブーメラン、槍、日本刀、その他友梨が名前も知らないような武器が延々並んでいる。棚に入らない大砲や戦車に至っては唖然とするしかない。
「こんなものあっても、どうせ扱えないわよね……」
 エメリンが鎖のじゃらじゃらと付いた棍棒を両手で持ち上げながら言った。友梨もまったく同感だった。どれもこれも、重いだけの荷物にしかなりようがない。竹刀も持ったことのないような友梨には、武器を持って戦うなんてどだい無理な話なのだ。





           



2010.11.16 inserted by FC2 system