十六


 

 




「僕がおまえを許すと思うのか? エメリンを殺そうとしたおまえを」
 声は、鋭く尖った冷たいナイフだ。胸をえぐる。
「わたし殺そうなんて思ってなかったわ」
 彼が口元に笑いを浮かべた。いつもの、かけらも心を動かされていない時の、酷薄な笑みだ。
「どうかな。エメリンさえいなければいい。そう言ってただろう」
「だって、あなたが」
 彼は拳で壁を激しく打ちつけた。びくっと震えた拍子に、チリリと鈴が鳴った。
「いいか、僕の邪魔をするなよ。新しい柱さえ見つかれば……。おまえなんかいらないんだ」


 友梨は飛び起きた。叫ぶところだった。暗い部屋の中で、みんなまだ眠っている。
 心臓をなだめるように胸に手をあてて、浅い呼吸を繰り返す。
 あの声は、ティンカーベルの声だ。
 あたしは夢の中で、ティンカーベルになっていた。前に似た夢を見た時はわからなかったけれど、今でははっきりとわかる。あれは、あたしじゃない。
 友梨は小さく震えた。汗をかいたせいだろうか、寒いので毛布にくるまり、もう一度横になる。
 けれど、眠れなかった。眠ろうと思えば思うほど、ピーターのことを考えて、目が冴えた。ティンカーベルの痛みが、自分のもののように感じられた。いらないと言われた時の、胸がきりりと締め付けられる痛み。いつのことかはわからないが、あのやりとりは現実にあったことだ、と友梨は思う。
 きっと、違うのだ。ティンカーベルは違う。友梨を身代わりにしようなどと思うはずがない。ピーターに必要とされたいと、切に願っているのだから。
 だとすればティンカーベルは、あのとき、何を伝えようとしていたのだろう?
 何度目かの寝返りで諦めて、ジャケットに袖を通し、小屋を出る。月明かりだけを頼りに、友梨は砂浜に降りた。
 ピーターはまだ戻っていない。夢の中のように、ティンカーベルに会いに行っているのだろうか。それとも「外」にいるのだろうか。
 波の音を聞きながら、友梨はひとり歩いた。疑問は尽きなかった。
 自分はいつまでここにいるのだろう。まだ帰らない、とは言ったものの、本当に戻れるのだろうか。
 なくした物はなんだろう。思い当たるのは、絵くらいだ。思うように描けなくなっている。毎日毎日、それこそテスト用紙の裏にだって描いていたのに。
 くしゃみが出た。少し体を縮める。やっぱり寒い。友梨はポケットに手を突っ込んだ。
 じゃりっと手に感触が伝わる。ああ、そういえば貝殻を入れっぱなしだった。つかんで引き出し、手のひらを広げる。
「あれ?」
 貝のひとつが、うっすらと光を放っていた。欠けているものばかりだと思っていたのに、完全なものが混じっていただろうか。友梨は光る貝をつまみあげた。軽く押してみても反応がない。固い。
 ぐっと力を入れると、パチッと電流が走った。

 学校の廊下に立っていた。職員室の前だ。友梨は掲示物の並ぶ壁を気にしている。
 今日は日直で、全員分の連絡帳を取りに来たのだが、この廊下へ行くと壁に目をやるのはもう習慣のようになっていた。
 なぜなら、そこに友梨の描いた絵が飾られていたからだ。秋の間中、展覧会に出品されていて、冬になってようやく戻ってきた朝焼けの海の絵。賞をもらったので、職員室前に掲示されることになり、まだ友梨の手元には帰ってきていない。
 自分でも、よく描けたと思える自信作だった。けれど今日も、誰も見ていない。周りにはたくさんの生徒がいるけれど、掲示物なんて気にもとめていない。いつも通りだった。
 けれど違っているところがひとつ。
 絵の下に小さな白い長方形の紙、「一年三組 名倉友梨」。両端を押さえていたはずの画鋲が一本どこかへ行っていて、その名札は横書きなのに縦向きになってだらんと垂れ下がっている。
 その光景はなんだか、胸が痛かった。
 三組の棚の中から取り出した連絡帳の束を抱えたまま、友梨はどうしようかと逡巡した。
 情けなく安定を奪われた、あたしの名前。
 さっと横向きに直して画鋲でとめる。たぶん数秒しかかからない。きっと誰も見やしない。だけど……、もしも知っている誰かが目にしたなら。表彰された自分を誇示するようで、みっともないではないか?
 いやいや、考えすぎだ。みんな関心なんてない。だけど、でも。
 ああ、そうだ、どのみち画鋲がない。
 友梨はその事実に思い当たって、諦めることにした。見なかったことにして忘れよう。放っておけばそのうち、先生が気づいて直してくれるだろう。
 教室に帰りかけて、未練がましく振り返る。だってその前に剥がれ落ちて、踏まれてゴミになってしまうかもしれないじゃない?
 たかだか、紙切れのことなのに。
 気になって気になって仕方がなかったのだ、実際のところ。
 だから驚いた。その時知らない誰かが、絵の前で立ち止まっていたことに。
 ポケットに手を突っ込んだ男子生徒。どこかで見たことがある。たぶん、同じ一年だ。
 彼の視線は、けれどよく見れば下の方を向いていた。友梨の絵の下の、剥がれかかった名前のさらに下。ああ、保健だよりを読んでいたのか。なんだ。
 自意識過剰だよと自分を笑おうとしたその時、友梨は見た。見てしまった。
 すっとポケットから抜かれた手が保健だよりの下の方に触れ、そして彼はひょいと手を伸ばして、本当に何でもないことのように友梨の名前を横に戻したのだ。
 それは帰りの会の前の休み時間のことで、みんなけっこう急いでいて、だから目撃者は友梨ひとりだっただろう。
 あの子、保健だよりの画鋲はずしちゃった。
 ぺらぺらの小さな名札と違い、保健だよりは四箇所で留めてあった。下の一つをはずしたところでズレはしない。無論、風が吹けばひらひらしてしまうだろうが。
 それを見越して、保健だよりを犠牲にして、彼は友梨の名前を元通りにしてくれたのだ。
 名も知らぬ男子生徒は画鋲を刺し直してすぐ壁から離れた。学年別の棚の方に向かっていく。そして、しゃがんで一番下のスペースから連絡帳の山と配布物を取り出した。
 一番下ということは、六組だ。顔を覚えておきたくてじろじろ見てしまってだから目があったのは当然の成り行きだったのだけど、ありがとうと言うべきなのか一瞬考えたけれど、彼は友梨のことなど目に入らなかったかのように視線を前にすべらせてそのまま廊下を歩いていった。
 やっぱり、自意識過剰かも。
 あれがあたしの名前だったなんて知らないんだよね、きっと。でもありがとう。
 心の中で頭をさげて、友梨も教室に戻った。同じように荷物を抱えた制服の背中を眺めながら。

「これ……あたしの夢……あたしの記憶?」
 すっかり忘れていた。たぶんあの日の晩ご飯を食べた頃にはもう覚えていなかった。でもその時はほんとうに嬉しかったのだ。
 消えていく指先のささやかな光を、友梨は見送っていた。なくしたまま気が付かないものは、きっとたくさんあるのだ。夢の中でなくても同じだ。
 ここに流れ着くのはみんな、忘れられてしまった幸せな思い出なのだろうか。
 そうだ、夢は記憶の集合というではないか。ネバーランドに打ち上げられる貝は、持ちきれず置き去りにされた幸福なのかもしれない。それを、ここでは夢と呼ぶのだ。
 知らず涙があふれてきて、友梨はジャケットの袖で頬をぬぐった。手の甲にふれた頬が温かかった。
 まばたきの間に、水平線の上がほんのりと白くなっていくのを見た。朝日が姿を現そうとしているのだ。
 海辺の朝焼け。初めてそれを見て感動した遠い日のことを、色鮮やかに憶えている。
 友梨はボート小屋に走り、スケッチブックを抱えて戻った。今、描かなければいけない。そういう気持ちに突き動かされて。
 夜の闇を脱ぎ捨てた渚は桃色に染まり、打ち寄せる波は輝いていた。友梨は砂浜に座り込んだまま、ひたすらに鉛筆を動かし続けた。





           



2010.11.11 inserted by FC2 system