十五


 

 




 目立つ岩礁の近くで、エメリンはボートをとめた。尖った剣が三本、さかさまに突き立ったような岩だった。
 友梨はそっと海面をのぞきこんだ。すぐに人魚が現れることを期待していたわけではないが、人の顔と目が合って映ってどきりとした。だがすぐに、自分の顔だと気がつく。
 エメリンはオールを揃えてから、歌いだした。はじめは小さく。次第に喉が温まってきたのか、のびやかに響き出す。低音は深くなめらか、高音は澄んで柔らかい。友梨は歌はあまり得意ではなかった。一オクターブ上がると途端に喉が詰まるのだ。だからエメリンがどうしてこんな声が出せるのか、不思議で仕方なかった。目を閉じてうっとり聴き入っていると、そのうち、別の音が混じりだした。
 水の跳ねる音だ。大きな石を落としたような、とぷんという音。
 エメリンは歌うのをやめた。友梨も目を開けた。
「こんにちは」
「ひさしぶりね、エメリン。そっちの子は誰?」
 ぷかりと浮かんできたのは、髪の長い女だった。
「ユリよ」
「あっ、はじめまして」
 体全体を見ようと興味津々でいた友梨は、慌てて挨拶した。
「ねえ、どうしてやめちゃうの? 続きを歌ってよ」
 尋ねたくせに友梨のほうを向きもしないで、彼女はエメリンに要求した。大きな尾びれがはねて、小さな水しぶきをあげる。
 まさしく、イメージ通りの人魚だった。腰から下がびっしりと鱗に覆われ、足のかわりに尾びれがついている。マーメイドというとロマンチックな感じだが、実際に見てみるとどこか不気味だった。
 エメリンは人魚のために続きを歌った。終わると人魚はすいっと離れていこうとする。
「待って。訊きたいことがあるの」
 人魚は振り返り、唇を尖らせながら言った。
「近頃は水が冷たいったら。風邪をひきそうよ」
 上半身は大人の女性なのに、声はまるで子どものような高いトーンだ。顔の造作は、美しいのだがどこか不自然な感じがする。つるつるしていて温かさがない。マネキンみたいだ、と友梨は思った。
「この世界のことを知りたいの。なぜ変化が起こっているのか、なぜ夢が届かなくなったのか、元に戻すためにはどうすればいいのか、教えてほしいの」
 人魚は興味を示した様子もなく、濡れた髪の毛を指ですくっている。
「あなたなら、なにか知っているでしょう? どんなことでもいいの、聞かせてちょうだい」
 エメリンが重ねて頼むと、人魚はあさっての方を向いたまま喋った。
「別にどっちでもいいのにね。なんで人間は、難しく考えようとするのかしら?」
 さっきからさっぱり会話が噛み合っていない。友梨はじれたが、エメリンは辛抱強く繰り返した。
「答えて、お願い」
 人魚はぽちゃんと尾びれを跳ねさせて、あごを水につけながら言った。
「知らないわ。あたしじゃないもの。この世界を作ったのは」
 この世界を作った誰か? そんなの考えもしなかった。友梨は記憶をさぐった。ピーターパンの原作者ってこと? それって誰だっけ。もしかしてそれとは違う意味で?
「じゃあ、誰がこの世界を作ったっていうの? なんのために?」
 エメリンが友梨の疑問を口にした。
 人魚はくすくす笑いながら、ボートの周りをぐるりと泳いだ。
「知らないの?」
 パールピンクの唇で人魚は言う。
「ネバーランドはぁ、夢なのよ」
「そんなことはわかっているわ」
「わかってないわ。夢からできているっていうことよ」
 人魚の声がぐるぐると回る。そのうち、人魚ではなく、ボートの方が回転しているような気になってきた。友梨は酔いそうになって、胸を押さえた。
「夢を集めて作られているの。だからこんなに美しいのよ。ネバーランドは、今を永遠にと願う人たちの、幸せな夢の結晶。恐ろしいこと、汚いことからは目を背けて、きれいなままでいられるの」
 友梨ははっとした。そうだ、ピーターが言っていた。永遠の幸福。
「つまり、ティンカーベルがそう望んだっていうことね。この世界は、彼女の夢?」
 人魚はその時はじめて、はっきりと友梨を見た。
「そうよぉ。知ってるじゃないの」
 ひときわ大きな水しぶきがあがった。人魚が頭から海にもぐり、尾びれを高く上げて一回転したのだ。
「かわいそうなティンカーベル。人として持って生まれたものを全てなくして、世界と運命を重ねたの。人の夢はしょせん一夜のもの。長くは続かないわ。だからティンカーベルは人であってはいけないの」
 人魚がついと手を挙げる。空を指さすようにして背中からぱたりとおろす。
「いつまでたっても足ぶみばかり。時間を止めているのはだーあれ?」
 その言葉には、なぞなぞのように節がつけられていた。友梨はなぜかぞっとした。
「人は手の中にないものにこそ焦がれるもの。だから、ネバーランドを望むのは子どもだけとは限らない。世界の秘密を教えるのは、いつだって大人の役目なのよ」
 甲高い笑い声の後、人魚はざぷんと水に浸かり、そのまま姿を消した。
 しんと静まりかえったボートの上で、友梨は寒気を追い出すように自分の腕を撫でさすった。嫌な感じが首のあたりにまとわりついて離れない。
「大人……ネバーランドの大人?」
 難しい顔をしていたエメリンが、ふと顔をあげる。
「そうだわ。キャプテンなら、もしかして」
「キャプテン?」
 主将? いや、違う。船長だ。ネバーランドの船長、それはつまり――
「フック船長のことっ!」
 エメリンはうなずいた。
「でも、会いに行くのは難しいかもしれない。扉の世界ができる直前、キャプテンはピーターとなにか取引をしたらしいの。それ以来姿を見ていないわ。冒険の扉にいるはずなんだけど」
「扉……じゃあ、中に入るには」
「合う鍵がいるわね。ピーターの持っているマスターキーなら、どこでも行けるけど」
 あの銀色の鍵のことだ。
「スペアはないんですか?」
「キッチンの棚の中に隠してあったはずなんだけど……、なくしたってピーターが言ってたわ。あなたが来てからのことよ」
 でも本当は隠したのかもね、とエメリンは肩を落とした。
「森の家のどこかにあったりしない?」
「雪が降り始めた頃に私がさんざん探したわ。それに、引っ越しの時あれだけひっくり返したのよ。望み薄ね」
 二人で首をひねったが、名案は浮かばなかった。


 沖から岸に戻った頃にはもう日が沈みかけていた。エメリンが急いで夕食を作り、友梨はそれを手伝った。
 ピーターのいない夕食は、なんだか味気ない。食欲はなかったが、友梨はどうにかそれを食べ終えた。
 後かたづけをラウラに任せたエメリンに声をかけられて、友梨は今後の対策を練ることになった。とにかく問題は船長とコンタクトを取る方法である。
「冒険の扉といえば、シェイと……今はシェイしかいないわね」
 青い扉の担当だったのは、シェイとカリムだ。カリムはもういない。
 砂浜のたき火のそばで、二人は簡単に事情を説明した。人魚には会えた、大人が必要だと言われた。船長に会いに行かなければならないが、鍵がない。
 シェイはいつも通りの無表情で、とにかく反応が薄い。エメリンはそれでもなんとなく通じるのか、慣れているのか、根気強く話して情報を引き出した。
「鍵はないのよね。ピーターが持って行った?」
「そう」
「じゃあ……そうね、とりあえず場所はわかる? 扉の中の、どのあたりに船長がいるのか」
 シェイは二呼吸ほど後で、ぽつりと言った。
「キャプテンなら、港にいる」
「それは、冒険の扉の、どこにあるの?」
 シェイはふいと歩いていき、戻ってきたかと思うと棒を手に持っていた。砂にぐるりと丸を描き、はしっこを指す。
「……このあたり」
 全然わからない。友梨はエメリンと顔を見合わせる。
「他にはなにがあるの?」
 シェイは円の中心に三角を描いた。
「山」
 さらに三角が書き足されていく。
「山、山、川……」
 線は引かれたそばから崩れていく。なにがなんだかわからない。地図を描くカンバスとしては、砂浜は明らかに不向きだった。
「待って。スケッチブック取ってくるから」
 友梨はシェイを制止して、小屋に筆記具を取りに戻った。
 そしていざ、鉛筆で作成してもらっても、地図はらくがきの域を出なかった。
「どっちが北?」
 エメリンが訊くと、シェイは首をかしげた。
「ね、ねえ、シェイは扉の中で、どんな仕事をしてたの?」
 友梨の質問に、シェイはぼそぼそと答えた。
「武器商人の役。実際は売るんじゃなくて、貸すだけだけど。あそこ、装備がいるから」
 装備と聞いて、友梨は弟の遊んでいたゲームを思い出した。悪い予感がする。
「もしかして、モンスターとかいるの?」
「それは、いない」
「あ、よかった……」
 まずは一安心だが、結局なにもわかっていないに等しい。エメリンが問答を重ねた結果、とりあえず大きな丸印の外は海で、どこかの岸辺に港があり、そのあたりに船長が住んでいる、というところまでははっきりした。





           



2010.11.06 inserted by FC2 system