十四


 

 




「断って正解よ、ユリ」
 憤りをあらわにしながら、エメリンは言い切った。
「あの……、馬鹿! 人をなんだと思ってるのかしら。まるっきり脅迫じゃないの!」
 ようやく呼吸が落ち着き、涙も止まった友梨は、濡れた頬をごしごしこすりながら尋ねた。
「でも、ティンカーベルって……、そんなに簡単になれるもの?」
「さあ。ピーターがそう言うのなら、まあ、なれるんでしょうね」
「だって、妖精……でしょ?」
 ピーターと話していた時は、とにかく抗うことで精一杯で、細かいことまで気が回らなかったのだが、冷静になって考えてみればそこが疑問だった。
「ティンクも元は普通の女の子だったって、聞いたことがあるわ。まだ人の世界にいた頃の知り合いだとか、そんなことを言っていたもの」
「……つまり、ピーターも、生まれた時からネバーランドにいたわけじゃ……」
「ないわね」
 それはいったい、どれくらい前のことなのだろうか。
「でも、このネバーランドのはじめから、ピーターはいたはずよ」
 ずきずきと痛む首を押さえながら、友梨はエメリンの話を聞いていた。
「前にしたわよね、ティンクが大地だという話」
「ええと、夢が水だっていう」
「そう。それで、ピーターは光なの。欠けてはいけないものなのよ。ピーターもティンカーベルも、ネバーランドを構成する要素だっていうことね」
 ということは、なにかのきっかけでネバーランドは始まったのだ。
 始まりがあれば、終わりがある。今がその時なのだろうか。滅びは、どうしても避けられないのだろうか。
「もし、あたしがティンカーベルになれば、うまくいくのかな。暖かくなって、みんな帰らずにすんで……」
 言いながら、友梨は怖くなった。空から響いてきたティンカーベルの言葉、友梨に向かって投げかけられたその最後の部分を思い出したのだ。
 ワタシノカワリニ。
 この世界に来たその時から、聞こえていた鈴の音。ティンカーベルは、はじめからそのつもりだったのだろうか。偶然ではなく、身代わりとして招かれたのだろうか。
「だめよ、そんなの。あなたには、帰る家も、待っている人もいるでしょう。ティンカーベルになるということは、人ではなくなるということだから――確実に戻れなくなってしまう」
 それに、とエメリンは付け加える。
「確かに今、ティンクの力は弱っているけれど、それは結果にすぎないわ。原因が他にあるのよ。あなたが新しいティンカーベルになって力を注いだとして、それでしばらくは保つかもしれないけど、根本的な解決にはならないわ」
 エメリンは、友梨を元気づけるように肩を叩いた。パブロもとなりで同意するように鳴く。
「なにか、別の方法があるはずよ。考えましょう。あの薄情者が出かけているうちにね」
 ちらりと空を見上げながら、エメリンはピーターのことをそんな風に評した。
「ピーターは、代わりを探すって……」
「言っていたわね。ティンカーベルになれそうな女の子を見つけに、外へ行ったんだと思うわ」
「外?」
「ネバーランドの外よ」
「え、ええっ。出られるの」
「そうなのよ。ただ、そんなに長い時間はいられないみたいだけど。ほら、さっきも言ったけど、ピーターは光だから。あの人がここを長いことあけているとネバーランドが崩壊するの」
「へえ……」
「ストーブなんかも、たぶん外から持ってきたんだと思うわ。盗んだんじゃなきゃいいけど」
 道理で、自給自足ではありえないようなものが、あの家にはごろごろと存在したわけだ。
「まあ、あれのことは置いておきましょう。私たちはどうせ追いかけられないし、次の手を打たれる前にできることをしないとね」
 とはいえ、何をどうすればいいのか、友梨には見当もつかない。
「夢が少なくなって、バランスが崩れて……バランスが崩れるとティンカーベルの具合が悪くなって……そうなると夢がますます入ってこなくなって……」
 悪循環だ。
 夢を大量投入すればその場はしのげるだろうが、そんな手段はない。
「今まで、一度もなかったのかしら、こういうこと。私も、それほど詳しいわけじゃないのよね……」
 ボートをコンと叩いて、エメリンはなぜかその自分の手をじっと凝視した。
「エメリン?」
「海よ!」
 ぱっと表情を明るくして、エメリンは言った。
「ネバーランドの古い住人なら、きっと何か知っているわ。前の地震の時にほとんど出て行ってしまったんだけど、海にはまだ残っているの」
 エメリンは興奮した様子で友梨の手を握った。
「人魚に会いに行きましょう」


 ベイセルとミルトスが、浜辺にボートを運ぶのを手伝ってくれた。エメリンは子どもたちに「人魚に季節を戻す方法を聞いてくる」とだけ手短に説明した。
「もしピーターが帰ってきたら、私たちがどこに出かけたかは知らないって言うのよ」
 そして、エメリンは勇ましくオールを使い、海へ漕ぎ出した。一緒に乗った友梨は見ているだけだ。なんだか申し訳ないが、任せてと言われてしまったので「疲れたら、替わるからね」と応じた。ただしうまく漕げるかどうか自信はまったくない。
 自分になにができるだろう。力を持っている、なんて言われても、実感がわかない。
 友梨は膝を抱えた。どこかに手がかりが隠されているかもしれないと、これまでのピーターの言葉をあれこれと思い返してみるのだが、それだけで勝手に体が震えそうになる。
「ユリ、見て」
 エメリンが首を動かして浜辺を示した。
「ほら。みんなが手を振ってるわ」
 岩場によじのぼっているベイセル、ラウラに抱き上げられたタップ、いつものように仲良く並んだチェンリェンとソニア。ミルトスはめんどくさそうに片手をズボンのポケットに突っ込み、シェイは座ったまま、マウロとウルヨンは波打ち際を越えて足首まで海水につかっている。おまけにパブロも、手のかわりに茶色いしっぽを振っていた。
 森の家に来た当初は誰が誰なのか名前すらわからなかったが、今ではこうして離れていても、ひとりひとりの浮かべている表情までなんとなく想像できるほどになっていた。
 友梨はボートの上から大きく手を振り返した。自分もエメリンの言う家族の一員になれただろうか。彼らの姿は少しずつ小さくなっていく。
「なんだか、さよならの挨拶みたい」
 手を下ろすと、温かい気持ちと寂しい気持ちが心の中に残った。
「行ってらっしゃい、でしょ」
「そうだけど……」
 どうしても考えてしまうのだ。今にも消えてしまうかもしれない、もう会えないかもしれない、と。
「誰もがいつかは目覚めなければいけない。あの子たちもそれはわかっているはずよ」
 言葉にしなかった思いを読み取ってか、エメリンはぽつりと言った。
「みんなそうやって、ネバーランドを出て行くのだもの。それでも……」
 何かをかみしめるようにして、ぐいとオールを動かす。ボートは進んでいく。
「それでもやっぱり、わけもわからずに終わりにされるのは納得できないわね」
 友梨は強くうなずいた。





           



2010.11.01 inserted by FC2 system