十三


 

 




 朝食の後かたづけが済むと、エメリンはみんなを集めて砂浜へ移動し、宣言した。
「今日は、これから貝拾いをするわ。扉の世界が動かない今、わずかでも夢を集める方法はこれしかない。頑張りましょう」
 友梨はなんのことやらさっぱりだったが、同じように理解不能で首をかしげている子も数人いた。エメリンはその面々を呼び集めた。
「ええと。ベイセル、チェンリェン、マウロ、ウルヨン、それからユリね」
 扉の世界が成立してからのネバーランドしか知らないのが、この五人のようだ。
 エメリンの説明によれば、エネルギー源である夢の供給は、元々この入り江でなされていたらしい。砂浜に打ち上げられる貝殻の中に夢が詰まっていて、かつてはそれを取り出すのが子どもたちの仕事だった。ところが、近年になって欠けた貝殻が多くなり、完全な形で夢のエネルギーが届くことが少なくなってしまった。そのうちに漂着する貝の量自体も激減して、ネバーランドのバランスが崩れはじめ、対策として扉の世界での直接採取を行うことになった――
「昔はそれこそごろごろ転がっていて簡単に見つけられたんだけど、今はちょっと難しいわ。砂をさらってみて。大きさはいろいろ、でもどれも綺麗な二枚貝よ。はじめから開いてるのや、割れているのはダメ。閉じているのを見つけたら、指で挟んでそっと押すの。まあ、やってみればわかるわ。欠けた貝で指を切らないように気をつけてね」
 本当に貝が見つかるのか、友梨は半信半疑だった。朝から砂浜を歩いていたが、そんな貝を目にした覚えがないのだ。しかし、気をつけて砂だけを見ていれば、なるほど貝殻らしきものが混ざっている。拾い上げてみると、片方だけだったのでがっかりして投げた。
「……待って」
 このままにしておくとまた誰かが拾って二度手間になるかもしれない。思い直し、拾ってジャケットのポケットに入れた。紛らわしい物は排除しておくに限る。
 ここまできて潮干狩りをさせられるとは、思いもよらなかった。渡された熊手で砂をかきながら、腰が痛くなりそう、と覚悟する。
 ひっかかって、貝かと思うと石だった、ということが二、三度あり、めげずに続けているとようやくひとつ、小さな貝が見つかった。日の光に当たると、CDの表面のように色を変える。もっとよく見ようと目の位置まで持ち上げると、指に力が入ってしまったせいか、ぱちんと開いた。ホウセンカの実がはじけるように。
 途端、貝の中から虹があふれ出したような、オルゴールの音色がこぼれたような、そんな気がした。すぐに錯覚は消え去った。貝はうすい煙をあげて消えていた。
 失敗しただろうか、と思ったが、その瞬間を目撃したらしいラウラが寄ってきた。
「ユリ、もう見つけたの。すごいじゃん」
「い、今のでよかった?」
「ばっちり。これでちょっとでも、ティンク、楽になるといいね」
 友梨はうなずいて、次を探しはじめた。正直はずれの方が多かったが、長いこと採取されていなかったせいか、あちこちでそれなりに「あった、あった」という声があがった。貝を探すのに夢中で下ばかり見ていたマウロとタップが前方不注意で正面衝突しておでこを押さえていたのを見たせいばかりではないが、他の子たちの探していない場所がいいだろうと思い、友梨は人のいない方向を選んで熊手を進めた。貝からは開くたびに光がこぼれた。懐かしくて泣きたくなるような、切ない輝きだった。
 気づけば入り江の端の方まで来ていた。
「ユリ、ユリ」
 顔を上げると、食事の後にふらっと出かけていったはずのピーターが手招きしている。なぜか、木の陰に隠れて。
「どうしたんですか」
「なんだって貝拾いなんかはじめたの?」
「あの、エメリンが……」
「ふうん。焼け石に水だと思うけど。ねえ、それよりこっちにおいで。話があるんだ」
 友梨の返事を待たず、ピーターは歩き出した。聞かれては困るような話だろうか。心当たりのない友梨は、首をかしげながらとりあえず後を追った。
「今朝のことなんだけど」
 ピーターはボートを並べた場所まで来て立ち止まった。ちょうどピーターが釣りをしていた岩場の陰になっていて、そこからは浜が見えなくなっている。
「驚いたよ。いつの間にエメリンとあんなに親しくなったの?」
 友梨はピーターを見上げたが、首を上向ける時ちょっと痛かった。すでに、潮干狩りもどきの反動が現れているようだ。
「彼女はずいぶん、君のことを気に入っているみたいだ」
「そ、そうでしょうか」
「うん。僕にはわかるよ。友だちができて、とても嬉しそうだ」
 ポートの縁にもたれるようにして、ピーターは言った。
「僕も嬉しい。君のような人が、今この時に、ネバーランドを訪れてくれたことがね」
 思いがけない台詞に、友梨は胸がぎゅっと痛くなるのを感じた。
「君はどうかな。いろいろと大変な思いをさせてしまっているだろう? ひょっとして……もう帰りたいと、思っているんじゃない?」
「いえ! あたしは、そんな……。その、できることなら、力になりたいと思ってます」
「優しいね」
 囁くようにこぼれた言葉が、微笑みが、友梨の頬を染め上げる。
「僕には君が必要なんだよ、ユリ。君のような人をずっと探していた。そう、扉の中でずっと、待っていたんだ」
 もう期待してはいけないと思うのに、鼓動は勝手にどきどきと走り出している。歯がかみ合わなくなって、両手で震える口元を押さえた。
「君を見つけた時に、僕がどんなに嬉しかったかわかる? 君の力が必要なんだ。君は人に夢を与える力を持ってる。もしも君が、僕と生きることを望んでくれるなら――」
 ピーターの唇がゆっくりと動く。友梨はそれをまばたきもせずに見つめていた。

「僕の新しいティンカーベルになってほしい」

 冷たい針が、胸に落ちた。
 何を言われたのか、理解できなかった。友梨は動くことのできないまま、ピーターの声を聞いていた。
「奥行きのある夢、触感のリアルな夢、音の多く聞こえてくる夢……、夢にもいろいろあるけれど、君の夢はディティールがはっきりしている。鮮やかで、繊細で、美しい。夢の中は心の中だ。君の想いを映している。君の描いたネバーランドはどんな風になるんだろうね? 楽しみだよ」
 ピーターの言葉は、歌うように淀みなく続く。足元から冷たくなっていく。氷を食べた時のように、頭が痛みだした。
「あの……どういうことなのか……。ティンカーベルに、なるって……」
「ああ、簡単だよ。難しく考える必要なんてない。君はもう充分、このネバーランドに馴染んだよ。あとはただ君が望むだけでいいんだ。僕が力を貸すよ」
 深い緑の瞳が、友梨を捉えていた。安らぎの扉で初めて会った、あの時と同じだ。魅入られている。
 それなのに、怖い。震えが止まらない。まともに息ができない。
「君だって、ネバーランドを救いたいと思ってくれているんだろう?」
「あの、でも、あたし……」
「これまでも、そこそこ力の強い子はいたよ。でも、これぞと思うほどの確信を得られたのは初めてだ。新しい僕のネバーランドの主には、君がもっともふさわしい」
 ピーターが、ボートに寄りかかっていた体をまっすぐにし、立ちふさがるように友梨に迫った。
「お願いだよ、ユリ。ずっと僕のそばにいて、この世界を守ってくれ」
 お願い? 違う。これは、これは、命令だ。
 どくどくと脈打つ心臓が、警告を鳴らしていた。
 ――手遅れだわ。何もかも――
 ティンカーベルの叫びが、胸に突き刺さる。
「できません」
 乾いた唇が、やっとそれだけのことを形にした。
 ピーターが軽く目を瞠る。
「なぜ?」
 その瞳の色がふっと冷たくなった。
 胸が押さえつけられたように息苦しい。友梨は浅い呼吸を繰り返しながら、どうにか立っていた。
「君の想いは僕に届いていたよ。ずっとこうしていたい、このままでいたい。まさにその願いなんだ、ネバーランドを支えるものは。永遠の幸福が手に入るのに、どうして放棄しようとするんだ?」
 嘘だ。
 それならばあのティンカーベルの悲しみを、どう説明するのだ。
 友梨は瞳の呪縛を振り切って、目を強く閉じた。足元に視線を転じ、そして、一歩さがる。本当は逃げ出したかった。けれど、逃げ切れないであろうこともわかっていた。
「あたし、今のネバーランドをなんとかしたいって、思います。でも、そのためにあたしがあたしじゃなくなることは……できません」
「――そう。結局のところ、自分が一番かわいいんだね」
 降ってきた声は淡泊で、これまでの柔らかさがそぎ落とされていた。目の前にぬっと手を伸ばされて、友梨はびくりと身構えた。
「残念だよ、君となら仲良くやれると思ったのに」
 ピーターは友梨の首元に指をつっこんで銀の鎖を引き出した。痛い、と抵抗する間もなかった。鎖をつかんで引き寄せられ、額がぶつかりそうなほどピーターの顔が間近に迫る。
 恐ろしさにまばたきもできない。歯がカチカチと音を立てた。
「とんだ見込み違いだったな。大人しく言うことを聞いておけば――」
 犬のはげしく吠える声が聞こえた。パブロだ。
 ピーターが舌打ちした。鎖が力ずくで引きちぎられる。
「これは返してもらう。おまえには価値のないものだ」
 友梨はよろめいて尻餅をついた。それをかばうように前に立ったパブロが、ピーターに牙をむいてうなる。遅れて、息を切らしたエメリンが駆けつけた。
「ピーター! あなた何をしているの」
「ちょっと出かけてくるよ、エメリン。急いで代わりを探さなきゃならないからね」
 すでに浮き上がってパブロから距離を取っていたピーターは、エメリンに笑いかけると空を蹴り、ぐんぐん上昇してすぐに見えなくなった。
「待ちなさいっ……」
 制止は届かず、エメリンは吐息して友梨を振り返った。
「ユリ、大丈夫? 何があったの?」
 差し伸べられた手につかまって立とうとしたが、力が入らず、友梨はぺたりと座り込んだまま泣き出した。悔しいのか、ほっとしているのか、悲しいのか。わからないままに、次から次から、涙はあふれてきた。





           



2010.10.27 inserted by FC2 system