十二


 

 




 ピーターが戻ってきた時、友梨はパブロを枕にして眠っているタップに毛布を掛けるところだった。子どもたちが落ち着いてきたので、エメリンは昼食を作りにキッチンへ行っている。
「おかえりなさい」
 友梨が声をかけると、ピーターは軽くうなずいて、部屋を見回した。
「あの……ニナが……」
「そう」
 短く答えて、マフラーを外す。雪片がはらはらと舞った。
「エメリンは、お昼を作ってるの? もうそんな時間か」
 コートを壁に掛け、ため息をひとつ。それからピーターは友梨を見た。やわらかい笑顔が浮かぶ。
「ずいぶん疲れているみたいだけど、平気?」
「え、あ、はい。でも、ピーターの方が……」
「僕のことなら心配いらないよ。慣れているからね」
 友梨の肩を軽く叩いて、ピーターはキッチンへ歩いていった。エメリンに話があるのだろう。
 だめだと思いつつ、どうしても気になるので、さりげなく近づいて聞き耳を立ててしまう。
「やっぱり帰ってしまったみたいだ。ティンクにも見つけられないってさ」
「そう。ありがとう」
「ニナも帰ったって?」
「目の前だったから……。間違いなくね」
「そうか。やっぱり、もう限界が近いんだな」
「だから、このままじゃいけないわ」
「わかってる。ちゃんと考えてるよ」
「考えてるだけじゃだめよ。もう同じにしたいなんて言ってられないわ。違う?」
「…………だけど、そんなにすぐには越せないだろ」
「ボート小屋があるでしょ? 全部外に出しましょう。寝起きするのに足りるわ。炊事は外ですればいい」
「毎日がキャンプってわけか。やれやれ」
 どうやら話はピーターが折れる形でまとまったようだ。
「ここ、手伝おうか」
「いいから、子どもたちを見てきて」
「はい、はい」
 ピーターが戻ってくるのを感じて、友梨は急いで眠っているタップのところへ戻った。
 本当は、ピーターはもっと落ち込むのかと思った。それをエメリンにだけは見せるかもしれない、と。違ってどこかほっとしたのも事実だが、少し冷たいのではないだろうか。
 ピーターは、慣れていると言った。どういうことなのだろう。
 これまでもたくさんの子がネバーランドを離れるのを見てきたのだろうか。ネバーランドの住人であるピーターは、訪れる人を歓迎する立場だ。それはずっと変わらない。彼は何を思って家族を迎え、そして送り出すのだろうか。
 なんだかひとりで悲しくなって、友梨はパブロを撫でた。けれどいつものようには落ち着けなかった。


 二日後、雪が止んだので、さっそく引っ越しが決行された。
 大きなソリに食料や薪、調理器具、毛布、モップなどを積み上げたところで容量オーバーになった。何往復かすることは免れないようだ。ソリを引かない小さな子もリュックを背負って歩く。
 森を抜けた途端、変化があった。木立がまばらになると同時に寒さが和らぎ、積雪が薄くなり、海のきらめきが見える頃には地面の白い斑点が完全に消えた。まさに季節が変わったという感じだった。
 平原の草は茶色くなってしまっていたが、吹き渡る風には身をすくめるほどの冷たさがない。ちょうど秋も深まった頃、というくらいの気候だろうか。ソリが引けないとぶつぶつ言いながら荷を崩しているミルトスたちも、言葉とは裏腹に楽しそうだ。
 入り江にたどりつくと、まずボートを小屋の外に出す作業がはじまった。その次は、大きい子は次の荷物を取りに行く係、小さい子は小屋の掃除、と二手に分かれる。力仕事はあまり得意でない友梨も、年少の子と比べれば立派な戦力に数えられ、堂々の荷物係だ。行ったり来たりしているうちに昼になり、サンドイッチをかじって今度は荷物の運び入れ。家具はほとんど持ってこられなかった。小屋は小屋だ。森の家と比べると、居間ひとつ分より狭いくらいだった。
 晩ご飯を食べ終わるともうくたくたで、片づけもそこそこに一人二人と毛布の海に沈没していった。友梨もおやすみなさいと目を閉じるとすぐ眠りに落ちてしまった。
 しかし、寝付きがよかったせいか、目覚めるのもまた早かった。友梨はひとりで起きあがった。カーテンを取り付けたばかりの窓から差している光が弱い。
 ぼさぼさの髪を無意識になでつけながら子どもたちの頭の数を確認する。
 九人。全員だ。
 だが、ピーターとエメリンがいない。寝ていたような跡はあるのだが。
 友梨はジャケットを羽織り、靴を履いて、そうっとボート小屋の扉を開けた。浜に出ると、ちょうど朝日がすべて姿を現したところで、海にまっすぐな光を投げかけていた。
 いつだったか、こんな海を見た。あれは確か、学校のオリエンテーリングだった。もちろん、学校行事がただ海を見るだけで済むはずもなく、地引き網の体験などさせられたのだが。
 そのために早朝からたたき起こされて見たものは、輝く朝の海。海の近くには住んでいないから、朝の海を見たのは初めてだった。あまりにきれいで心に残ったので、夏休みの課題の「一学期の思い出」の絵はそれをテーマにしたくらいだ。
 不思議だ。今までずっと忘れていた。波の音を聞きながらぼんやり立っていると、名前を呼ばれた。
「ユリ!」
 エメリンだった。両手にバケツを持っている。どうやら水を汲んできたらしい。
「どうしたの? こんなところで」
「えっと、起きたらエメリンさんがいなくて……気になって」
 エメリンは笑ってバケツを置き、友梨の隣に立って海を見た。
「きれいね。見とれる気持ちもわかるわ」
 そうだ。いなくて気になったので、と言いつつ、探していなかったのだ。友梨はごまかすように肩をすくめた。
「今、思い出していたんです。学校のこととか。ここに来るまで全然、考えもしてなかったのに」
「日本だったかしら。大きな学校だった?」
「えっと、普通だと思います。六組まであるから……一学年、二百人ちょっと」
 そう、とエメリンが呟く。お下げ髪をひっぱって、放し、そして友梨の手をとった。
「気を悪くするかもしれないけど、でも、やっぱり言うわ。あなたは帰った方がいいかもしれない」
 エメリンはちらりと、海とは反対側に視線を投げた。誰か来ないか、気にしているのだろう。
「小さな子どもがネバーランドへ来るのは簡単なの。必要なのは生きる力と、夢の力。子どもは誰でもたくさん持っているわ。でも成長するごとに、少しずつ難しくなるの。帰るときも同じなのよ。あの子たちは本当に望めばすぐ戻れるわ。でもあなたは違う」
 以前のような反感は覚えなかった。今ならわかる。嫌われていたのではない。彼女はむしろ、ピーターに苛立ちを覚えていたのだ。
「あなたくらいの年齢でネバーランドに来るのは、けっこう珍しいのよ。それだけ力が強いということだけど……。でも、危険もあるの。ふつう、夢を見ている間、人は心だけで夢の世界へ来ているわ。でもここには体も持ってくることができる。そのかわりなにかを置いてきているのよ。長くいればいるほど、そのことに違和感がなくなっていく。なにを失ったのか完全に忘れてしまったら――もう戻れない」
 友梨はごくりと唾を飲んだ。置いてきてしまったもの、それはなんだろう。まだ覚えているだろうか? 手が届くだろうか?
 ティンカーベルが言っていた。答えを探して。あれは、どういう意味だったのだろうか。失ったものを、ここで見つけることができるのだろうか。
 まだ何もわからない。けれど、どうしたいかはもう決まっていた。友梨はエメリンの手をしっかりと握り返しながら言った。
「あたしは……もちろん、戻るつもりはあります。でも、今はできません。この世界が大変なことになってるのに、このまま帰るなんて。なにもせずにいるなんて、できません」
 エメリンは泣きそうな顔で笑った。
「そう……。そうね、私もそうだわ」
 友梨はうなずいて、エメリンの持ってきたバケツを片方、勝手に持ち上げた。
「朝ご飯の支度、手伝うね」
「ありがとう」
 日はほとんど水平線から離れつつあった。二人はバケツをひとつずつ持ちながら、砂浜を歩いた。
「エメリンさんは……、エメリンは、なにを置いてきたの?」
「私は、ネバーランドにたまたま迷い込んだわけじゃない。他のみんなとは少し違うの。――でも、ここに来てもうずいぶん経つから、すっかり忘れてしまって気がつかないだけなのかもね」
 じゃあどうやって、と聞こうとした友梨は、言葉を飲み込んだ。ピーターが手を振っているのが見えたからだ。
 岩場から飛び降りたピーターが、近づきながら言う。
「やあ。おはよう、ユリ」
「おはようございます」
「釣れたの?」
「なんとか。一人一匹はないけど」
 ピーターはどうやら釣りをしていたらしい。そして、友梨にしか挨拶しなかったところからみても、朝日が昇る前からとっくに起きてエメリンと一緒にいたのだ。
 予想通りではあった。そもそも、森の家にいる時からして、そうだったのだ。
 やっぱり、あたしの入る隙間なんてないな。
 今更ながらに思いながら、友梨は水の入ったバケツの取っ手を握りなおした。
「じゃああたし、先に戻ってますね。誰か起きてるかもしれないし」
 足早にその場を離れようとした友梨の背に、エメリンの声が届く。
「待って。私も行くわ」
「そうだよ」
 友梨のバケツを、ピーターがとりあげた。早業だった。
「三人で戻ればいいじゃないか」
「あら、ピーター。私の分は持ってくれないの?」
「ええっ。君は慣れてるじゃないか……。ああ、いいよ。持つよ」
 エメリンの無言の圧力に押されて、結局ピーターはバケツをふたつ提げることになり、手ぶらになった女二人は、手をつないで帰る次第となった。





           



2010.10.22 inserted by FC2 system