十一


 

 




 寒さは厳しくなる一方だった。窓が凍って開かなかったり、積もった雪の重さで屋根がきしんだりする。そんな時は、雪が降っている中でもピーターが外に出て雪下ろしをした。家を囲んでいた三本の立派な木は、倒れてきたら危ないからと言って、ピーターが全部逆向きに切り倒してしまった。枝からさげてあったブランコも当然使えなくなったが、外に出られなければ使えないものなので文句は出なかった。吹雪がひどくて、庭で遊べる日はほとんどなくなっていたのだ。
 ストーブをたいていても、家の中は冷え込んだ。そもそも冬がこないことを前提として建てられている家なので、保温のことなどろくに考えられていないのだ。床暖房が欲しい、と友梨はひしひし思った。
 肌の白い北国の子たちはまだいいが、暑い国の子どもは慣れない寒さに耐えかねて、それぞれに苦しんでいた。タップは腹をこわし、カリムは両足がひどいしもやけになった。マウロはしもやけだけでなく耳の下が切れて出血し、ソニアは風邪を引いてチェンリェンとミルトスにうつした。シェイはただでさえ無口なのが、不機嫌そうに黙り込んでいる。
 この家を出るべきだ、と言い出したのはエメリンだった。
「夏の方ならまだ、ここよりはだいぶ暖かいわ。引っ越しすべきよ」
「だめだ。ここはずっと住んできた家なんだ。捨てることはできない」
「一時的なことだって考えられないの? このまま雪に埋もれてしまうわけにはいかないでしょう」
「大げさだよ。一晩に何メートルも積もるわけじゃあるまいし。そのうち元に戻るんだ。ここは動かせない」
 説得に失敗するたび、エメリンはこっそりと友梨に愚痴った。
「ピーターはここでの生活をできるだけ変えたくないのね。気持ちはわかるけど、実際的じゃないわ」
 ティンカーベルに会いに行ったことがばれたらしく、ピーターとエメリンの間の空気は険悪になっていた。ピーターも子どもたちの前では普通に振る舞っているが、いらいらしているのが見て取れる。友梨はといえば、いつエメリンに鍵を貸したことを咎められるかとどきどきしていたのだが、不思議と何も言われなかった。
 このままでいいはずがないが、何をしていいものか友梨にはわからない。ティンカーベルは何を伝えようとしていたのだろう? もう一度彼女と話せばわかるだろうか。時計塔に登って、呼びかければ答えてくれるだろうか。
「キャン!」
 悲鳴のような声で我に返る。考え事をしていたら、いつのまにかじゃれついていたパブロの足を踏んでしまったようだ。
「わあっ! ごめんパブロ。許してね!」
 パブロはしばらくうろうろとしていたが、また戻ってきてまとわりついた。
「人なつっこい犬だなぁ……」
 頭を撫でてやりながら、友梨は苦笑した。
 パブロはすっかり一人前の家族気どりで居着いている。時々ふいといなくなるのだが、帰ってくると何かしらおみやげをくわえてくるので重宝されていた。
 そんなパブロですら、外に出られない日が続いている。
「おまえも退屈だよね。晴れたら、お散歩行こうね」
 パブロの首を抱きしめると、ほっとした。暖かくて柔らかい、命の気配が安心させてくれるのだ。
 パブロは大人しく抱えられながら、はたはたとしっぽを揺らしていた。
「あっ。ユリ、パブロをひとりじめしてるね」
 ソニアがめざとく見つけて寄ってきた。パブロ独占禁止法は厳しく定められており、エサをあげる順番を抜かしたり抱っこは三分交替の決まりを破ったりすると、おやつ抜きの処罰を受けるのだ。
「う。交替?」
 いつもなら小さい子たちから引く手あまたなのだが、今はちょうどお昼寝の時間で年少組が静かだ。だからパブロも暇で近づいてきたのだろうが。
「見逃してあげる。そのかわり、あとで絵を描いてね」
 友梨が承知すると、ソニアは隣に座ってパブロの背中をさすりはじめた。一昨日までは寝込んでいたソニアだが、だいぶ具合も良くなったようだ。
「ねえ、ソニアはティンカーベルに会ったことある?」
「うん。ユリ、会ってきたんだって? ラウラが言ってたよ」
「会ったっていうか、声を聞いたというか……ねえ、ティンカーベルがいた頃って、どんなだったの?」
 ソニアは黒目をくるくるっと回した。
「んー、毎日遊んでた。追っかけっこしたりとか。仕事の間も、ティンクはひとりでいたずらしてたよ。それか、ピーターにくっついてた。はじめのうちは、ママとも仲良くやってたんだけど……」
「はじめって?」
「ママが来てからのはじめ」
 そうか、エメリンもずっといたわけではないのだ。友梨はふんふんとうなずいた。そうすると、ソニアはかなりの古株ということになるのだろうか。
「ママが来る前はね、大変だったんだよ。まともなごはんなんて出てこないもん。ピーターも今みたいにパン焼いたりとか、全然しなかったし。だからこの家の台所なんか全部、エメリンのためにピーターが作り直したの。それまでは……一番料理の経験があったのがシェイなんだけど、もう味付け独特なの! ユリも今度作ってもらったら?」
「そ、それは試してみたいような、遠慮したいような……」
 あのシェイが料理というのが想像できない。ソニアは楽しそうに笑った。
「それでもなにかしら食べるものはあったから、誰も文句は言わなかったけど。甘い果物も実るし。ほんと、いいとこだよね、ここは」
 ソニアがパブロを撫でる手をとめた。パブロはいつの間にか眠そうに目を細めていた。
「だから雪……止むといいな」


 ソニアの願いは届かず、その翌日も大荒れの天気だった。朝食の時から雷が鳴っていたが、もうその位では誰も驚かない。友梨も食後は居間でラウラにレース編みを教わっていた。ところが、激しく窓を打ちつける音が急に鳴り響き、森の家の住人たちは飛びあがった。雹だった。
「ねえ、ガラス割れない?」
 ソニアが心配そうに窓から遠ざかり、ウルヨンがラウラにしがみつく。
 雹はしばらくバチバチと音をたてていたが、やがて止んで、静かになった。外をにらみつけていたピーターがほっと息をつく。エメリンはストーブの上のヤカンが湯気を上げたので、お茶をいれるからお菓子を用意して、とラウラに言った。ティーカップとナッツ入りのクッキーを並べるのに、友梨も参加する。
 その時、シェイが子ども部屋から出てきた。
「カリムがいない」
 らしくない、はっきりとした声だった。
「さっきまでいたんだ、ベッドの上に。本を読んでやってた。なのにいないんだ」
 ピーターが顔色を変えた。エメリンはうなずいて、子ども部屋に走った。戸棚の中からベッドの下、トイレまで手分けして探したが、いない。ピーターが外に探しに行って、お茶もすっかり冷え切った頃に帰ってきた。黙って首を横に振る。
「……そう」
 エメリンが呟くように言うと、ピーターは大股に部屋に入ってきて、お茶をぐいと一飲みすると、またきびすを返した。
「もう一度見てくる。みんな集まって、離れないように。いいね」
 子ども部屋から出てくるカリムを誰も見ていない。他には窓があるだけだ。開けたならシェイが気づかないはずがない。どういうことなのか、友梨にはさっぱりわからなかった。
 マウロがまだ、子ども部屋の毛布を一枚一枚めくりながら、カリムを呼んでいる。寒さが増したような気がして、友梨は二の腕のあたりをさすった。なぜ、他のみんなは探すのをやめてしまったんだろう。確かに、もう他に思い当たるところなんてないけれど。
「マウロ、来い」
 ミルトスがマウロを手招きした。
「もう探すな。忘れろ」
 そう言ってマウロを抱き上げ、居間まで連れて行く。なんで、と抗議する口にクッキーをつっこむ。マウロはもそもそとそれを食べ、大人しくなった。
 しゃくりあげはじめたニナの頭を、エメリンが撫でる。
「大丈夫よ、怖がらないで」
 ママ、とニナがエメリンに抱きついた。エメリンが両腕でそっと小さな体を包む。
 友梨も見ていた。しゃがみこんだエメリンの腕の中で、ニナの姿が透明になるのを。
 ほんの数瞬だった。ロウソクの火に息を吹きかけたように、揺らめいて、消えた。
 ぱさりと、ニナが肩にかけていた毛布が落ちる。
 エメリンは膝立ちのまま動かず、からっぽの両手をじっと見ていた。パブロが不思議そうに鼻を鳴らし、毛布を嗅ぐ。
「ニナ! ニナ」
 ソニアが叫んだ。
 ぞくっと震えると、全身に冷気が行きわたるように感じた。寒い。足の先から鼻の頭まで、凍えそうだ。
 全員の視線が集まる中で、エメリンはゆっくりと開いていた手を握った。立ち上がって、ひとりひとりと目を合わせる。
「みんな、手をつなぎましょう。ストーブの周りに、輪を作るの」
 子どもたちは黙って集まった。友梨も同じようにした。
 誰一人口をきかなかった。パブロでさえ、雰囲気がわかるのかじっと伏せていた。
 エメリンは歌った。いつもの子守歌だった。かすれた声が、部屋に響く。
 その声が今にも泣き出しそうで、友梨はあわせて歌った。元は聞いたことのない歌だったが、もう覚えている。チェンリェンが、ベイセルが、次々と歌い出し、合唱になった。
 歌は魔法だ、と友梨は思った。心が少しずつ落ち着いていくのがわかる。
 みんなで歌い終わると、エメリンは言った。
「カリムとニナは、夢から覚めたわ。みんなわかっていると思うけど、今、このネバーランドは壊れはじめている」
 そうだ。これは夢なのだ。覚めたらどうなるのだろう。全てなかったことになるのだろうか。この世界はどうなるのだろうか。
「いつまで保つのかは、わからない。それまでここにいられるのか、最後までいればどうなってしまうのか、それもわからない。だけど――」
 みんながそれに続くエメリンの言葉を待った。エメリンはぎゅっと唇をひきしめ、両手を組み合わせてから、迷いを断ち切るようにきっぱりと顔を上げた。
「私たちは家族よ。そばにいなくても繋がっているわ。忘れないで」
 突然、チェンリェンが泣き出した。
「あたし帰りたくない、まだここにいたい」
 隣にいたミルトスが、つないでいた手を離してチェンリェンの頭をごしごしと撫でた。
「よし! 次は俺が歌うな!」
 ベイセルが立ち上がる。今度は知らない歌だ。けれど陽気な歌だったので、友梨は手拍子した。みんな泣いたり笑ったりしながら聞いていた。





           



2010.10.19 inserted by FC2 system