「入り口はどこかしら」
時計塔の土台は少し広がっている。ちょうど縦になったロケットのような感じだ。回り込むとドアが見つかった。
「ティンカーベルって、この上に住んでるんですか?」
エメリンがあまりに迷いなく進むので、やはり知っているのではと思って聞いたのだが。
「さあね」
「……」
立ち入りを禁じるチェーンらしきものをまたいで、エメリンはドアを開けた。
「ピーターが言っていたことがあるの。ティンクは扉の世界を見下ろしているって。だから、高いところに登れば会えるかなってね」
この人、意外と行き当たりばったりだ。友梨は「しっかりした人」というエメリンへの認識を改めることにした。
友梨もチェーンを乗り越え、八階建てくらいの高さはありそうな時計塔を真下から見上げた。
「こうやって見ると、遠くから見るより高いですね」
「そうね。頑張って登らないと」
「あれ、でも、飛んでいけないんですか?」
友梨は今頃気づいた。わざわざ歩いてこなくてもよかったのに。
「できる? 私はさっき、できなかったけど」
エメリンはあっさりと返してきた。もう試していたのだ。
友梨は言われた通りにした。目を閉じて、イメージする。楽しいこと――思い返すのはもちろん、ついさっきの空を飛んだ感動だ。直近の出来事だけに、興奮が鮮やかに戻ってくる。見下ろした雪のきらきら光っていたこと、風と一体になったこと。心は軽くなったが、足は地面についたまま、びくともしない。
「ほ、本当だ……」
「たぶん、ここは元のネバーランドとは少し違う法則が働いているからだめなのね。あの粉はそもそもティンクの魔力の一部だし、扉の世界も彼女の魔法でできているから」
エメリンの推理に、友梨も参加する。
「もしかしたら、夢を集めるための場所だからかも。力が吸い取られてしまうとか……」
「それはあるかもしれないわね」
真面目な顔でそう言っていたのに、エメリンは唐突に吹き出した。
「え、な、なんですか?」
「さっきのあなたったら、マラカスを鳴らしてるみたいだったわ」
何の話なのかわからない友梨は首をかしげる。が、思い当たった。飛んだ後の、舞台裏でのことを言っているのだ。
エアマラカス。まさかそんな風に見えていたとは。
エメリンは笑い続けている。
「もう、いつまで笑ってるの……。エメリンっ!」
「ご、ごめんなさい。だって……ぷくくっ」
エメリンは涙をぬぐって、どうにか笑いの衝動を抑えつけたらしい。まったく、失礼な話だ。泣くほど笑わなくてもいいのに。
けれど、結局おかしくなってしまって、友梨も笑った。
時計塔の内部はさらに薄暗く、足元が危ういほどだった。もうたくさんだと思うほど階段をのぼったあとで、ようやく時計の裏側につく。四面のすべてに時計がついているせいか、空間は大小様々の歯車や鎖、分銅などで埋め尽くされていた。ぎしぎしと音を立てて回る歯車は、いまにも止まるのではないかと思わせるほど、大儀そうに動いている。
「ここから上へ行けるわ」
エメリンが見つけた鉄のはしごでさらに登ると、ついに外に出た。尖った屋根のすぐ下の、鐘のある場所だった。
エメリンはすうっと息を吸ったかと思うと、声を張り上げた。
「ティンク! 聞こえる?」
見下ろす町並みの中に、声が消えていく。そよ風ひとつ吹かない、無人の町に。
「ティンク、私よ。話をしにきたの。眠っているの? 声を聞かせてちょうだい」
残響が失われて、静寂が戻る。徒労に終わったかと思われたその時、空を割るような轟音が襲ってきた。
「何しに来たのよ! 帰ってよ!」
耳がキーンとなる、などというレベルではない。とんでもない大音量だった。友梨は反射的に両手で耳を押さえた。エメリンも同様にしている。
「なんであなたが勝手に入ってきてるの! どういうつもりよ! 顔も見たくないのに!」
高い声がきいきいとわめき続けている。ただでさえ金切り声なのに、ボリュームが大きすぎて、何を言っているのかはっきりと聞き取ることすら困難だった。
「おち、落ち着いて……」
「ごめんなさい! あたしが鍵を貸しましたあっ!」
負けじと友梨が声を張り上げると、ふいに重圧が止んだ。大きな鐘が、ぼわんぼわんと震えている。
「ユリ?」
空から降ってくる音とともに、うっすらと光が差した。
「どうして、あなたまで……」
友梨は耳をふさいでいた手をおろした。
「ティンカーベル、あたしを知っているんですか?」
「当たり前よ。ここはわたしの世界だもの」
エメリンが口パクでなにか言っている。交渉は任せた、という感じだろうか。
「あの、大丈夫ですか? 体の調子の方は……」
「今はまだ大丈夫よ。ありがとう、優しいのね」
これ以上なにを喋っていいのかわからなくなった。エメリンの方を見ると、なにかラッピングされたプレゼントのような袋を差し出している。友梨が受け取ると、二回ほどうなずいた。
「あ、あの、差し入れです」
両手で宙に突き出すと、袋はふわっと浮いて上がっていった。まるで見えない糸で引っ張られているみたいに、するすると。
「ユリ、答えを探して。もう少し時間がいるの。あなたの……協力してくれる……わたしのかわりに……」
声が揺らぎだす。遠くなっていく。
エメリンが手招いたので、ユリは慌てて耳を寄せた。
「えっと、かえ、帰ってきて、ティンカーベル。みんな待ってるの。……うん」
ほとんど通訳係だ。エメリンがひそひそと早口に続ける。
「家に戻っていらっしゃい。昔のように過ごせば、また元通りになるわ」
友梨は聞き取ったまま、大声を空に向けた。
「家に戻ってきて。昔のように、暮らせば、元通りに」
「手遅れだわ。何もかももう戻らない」
ティンカーベルの声に、再び怒りが宿ったようだった。
「あなたさえいなければよかったのに――」
びりっと電流が走ったような気がした。強い憎しみが伝染したように。胸の中に重い石が投じられ、沈んでいく。それはすぐ悲しみの色に変わった。
目の前が真っ白になり、尻餅をついた。チカチカする目をこすりながら、見えた景色に驚く。
そこは舞台裏だった。はじき出されたのだ。
友梨の隣にはエメリンもいて、頭をおさえている。
「びっくりした……」
「……そうね」
二人は座り込んでいた。疲れ切って、立ち上がる元気もない。
「なんだったんですか? あの、中身」
「ビスケットとリンゴジャム。ティンクのお気に入り」
そう答えてから、エメリンは深く深くため息をついた。
「やっぱり逆効果だったかしら……もう仲直りできると思ってたのに」
「めちゃくちゃ怒ってましたね。やっぱり喧嘩してたんじゃないですか」
「してないわよ! だってティンクってすごくかわいいのよ。こんなちっちゃくて、羽なんかキラキラで透き通ってて、くるくる飛ぶのよ。私は大好きだったわ」
なんだか力説されてしまった。しかし、どう聞いても一方通行だ。
「はあ……」
「ピーターはどうしてティンクにそっけないのかしら。きっと男にはあのかわいさがわからないのね。そう思うでしょ?」
逆らう気も起きなかったので、友梨は曖昧にうなずいておいた。
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