はじめのうちは勢いよく歩いていたが、雪道は気合いだけではどうにもならない。徐々にペースが落ち、のんびり並んで歩く次第となった。
「ティンカーベルに、会うんですよね」
「……ええ、そうよ」
 説得しても無駄だと思ったのか、エメリンはついてくるなとは言わなかった。目的も素直に認めた。
「ティンクのこと、誰に聞いたの? ラウラ?」
「はい。秘密の扉にいるんですか?」
「どうかしらね」
 エメリンは曖昧に答えた。考えてみれば、間抜けな質問だった。ピーターが会うことを禁じていたなら、正確な場所など教えてあるはずがない。
「エメリンさんは、どうしてティンカーベルと、その、喧嘩したんですか」
 雪に埋まったブーツを引き上げ、またその先に埋めながら、エメリンは言った。
「別に、喧嘩したわけじゃないのよ。どういう風に聞いたの」
「ええと、詳しい話は何も。ただ、扉の世界を動かしてるのが、ティンカーベルだってことくらいしか」
「ふうん。まあ、そう言えなくもないけれど……、それは一面にすぎないわ」
「そうなんですか?」
「正確には、ネバーランドそのものを支えているのがティンカーベルなの。このネバーランドを木にたとえるなら、夢は水、ティンカーベルは大地。どちらも、なくてはならない存在というわけ」
 なんだか途方もない話だが、エメリンは数学の定理を説明するようにすらすらと語った。
「す、すごいですね」
「たぶん、だけどね」
「え?」
「私も、ピーターに聞いただけだから。本当かどうかは、わからないわ」
 ピーターが嘘をついている? そんな可能性は考えたことがなかった。友梨にとって、ピーターはこの未知の世界の水先案内人であり、彼を信じるところから全ては始まっていたのだから。
 ピーターの言葉は心を動かす。思わずうなずかされてしまうような響きがある。
 エメリンは、違うのだろうか。あの魅力を感じていないのだろうか。
 友梨は、はじめてエメリンの人となりに興味を持ち、あらためて彼女を見た。ピーターの隣にいる、きれいな女の子というだけで、苦手意識を持っていた。なんでもできて、いつも堂々としていて、時には厳しい子どもたちのママ。ピーターに対してすら、はっきりとものを言う。
 嫌われているのだろうと思いこんでいたけれど、わからなくなった。彼女がなにを考えているのか、ピーターをどう思っているのか、なぜここにいるのか――
「エメリンさん」
 呼びかけると、エメリンが振り向いた。切れ長でつり目がちなので、つい身構えてしまうが、彼女は怒っているわけではないのだ。たぶん。
「この間は、変なことを言ってごめんなさい」
「何のこと?」
 しばし間をおいて、ああ、と宙を見ながら言う。
「気にしていないわ」
 実にあっさりとした返答だった。
「あの、でも」
「それより、その話し方をなしにしない? ピーターが言っていたけど、私たち同い年なんでしょう。私は別に、あなたの先生でも上司でもないのよ」
「は、はいっ」
 思わず姿勢を正す。
「……上官でもないんだけど。まるで敬礼でもしそうね」
 エメリンは肩をすくめた。気分を損ねたかと思ったが、その次に彼女はくすくすと笑い出した。
「まあいいわ。それより……、思った以上に歩きにくいわね。スキーでもあればよかったかも」
 エメリンの言う通りだった。たいした距離ではないはずなのだが、子どもたちが踏み固めたあたりを越えた途端に難儀になった。張り出した木の根に足を取られて滑りそうになるわ、ブーツが深く埋まって抜けなくなるわで、すでに足がダルくて仕方ない。
 さらに進むと、倒木があった。雪の重みにやられたのだろうか、それとも風だろうか、幹が折れて道に横たわっている。
 迂回するしかないかと友梨は思ったが、エメリンは違った。コートのポケットから小さな袋を取り出し、さらにその中から瓶を引っぱり出す。風邪薬の瓶くらいの大きさだ。
「こんなこともあろうかと思って」
「な、なんですか?」
「ティンクの羽の粉よ。ピーターが床板の下に隠してる予備のやつ。見つからないと思うものかしらね」
 どう聞いても無断借用だが、エメリンは悪びれず、コルク栓を親指で抜いた。
「もっと早く使えばよかった。ユリも疲れたでしょ?」
 エメリンの手のひらにこぼされた粉は、宝石の粒のようにきらきらと光っている。彼女は躊躇なく二人分の頭上にそれを振りかけた。
「これで空を飛ぶの。この前も使ったのよ。ほら、秋の方まで出かけた時」
 エメリンが目を閉じたので、友梨も真似てみた。何も起きない。だが薄目を開けて見ると、エメリンのブーツが目の高さにあった。
「楽しいことを考えて、心が軽くなるような。あなたならできるはずよ」
 降ってくる声に、友梨は慌てて考えた。楽しいこと、楽しいこと。
 まっさきに浮かんだのは雨の日だった。いま向かっている、秘密の扉の中。絵を描きながらのんびりと過ごしたあの場所は、今どうなっているのだろう。占い師の館、広場の噴水、靴屋の軒下、橋の上。川を跳ねる魚にはまぶしく光る羽が付いていた。
 緑色の傘を二人で使った。肩が少し濡れたけれど、そんなことはどうでもよかった。歩調を合わせてくれることが嬉しかった。抱えたスケッチブックと、キャンディーの籠。そして甘いミルクの味。
 ふわりと足が浮き上がった。
「わ、わわっ」
 友梨は思わず四肢をばたばたさせた。エメリンが差し伸べた手につかまり、ようやく落ち着く。
「できたじゃないの! その調子よ」
 エメリンの腕にしがみつくような格好で上昇する。木の高さより少し低いところで止まり、そのまま前へ進み出す。はじめはゆっくりと。自転車が走り出した時のようにじわじわとすべりだし、風を受けて進む。片手を離しても安定するようになった頃には、ログハウスが見えてきた。あっという間だ。
 水鳥が着水するようにふわりと降りられたのは、どう考えてもエメリンのおかげだった。友梨は今頃興奮してきた。怖さとか驚きとか、そういう気持ちに邪魔されていた感動が吹き出してきたのだ。
「ほんとに空が飛べるなんて! 浮いてた! 飛んだ! もう着いちゃった!」
 同じようなことを繰り返し繰り返し、手も足もじっとしていられず、むすんでひらいて、意味もなく拍手し、寒さも忘れてうろうろと歩き回る。
「それはいいけど、鍵を出してくれる?」
 エメリンは笑いをこらえるような表情で、手を差し出した。
「あ、はいっ!」
 友梨の足はくるっと回ってようやく止まり、もたもたと震える手がどうにかポケットの鍵をさぐりあてた。


 扉の中は朝一番のように静まりかえっていた。机の上のカエルは微動だにしない。階段を下りて通りに出ると、エメリンはきょろきょろとあたりを見回した。
「へえ……。よくできてるわね」
 景色はまったくといっていいほど変わっていなかった。違っているのは、やや薄暗く、肌寒いことくらいだ。
「一番高そうなのは、あそこかしら?」
 エメリンが見つけたのは、もちろん時計塔だった。しばし眺め、首をかしげてから、歩き出すエメリンに友梨もついて行く。
「そういえば、思い出したんですけど」
「なに?」
「雪が降ったのは、ティンクのいたずらだってラウラが言ってました。そうなんですか? ティンカーベルがネバーランドを冬にしたんですか?」
「そんなことはないと思うわ。ティンクは今、必死でこの世界を支えているはずよ」
 無人の世界に、足音と声が吸い込まれていく。
「前にもあったの。はじめは嵐だった。次に地震がきたわ。ピーターは夢が集まらなくなったせいだって……それで扉を作って、そうしたら本当におさまったの」
 それは今以上におおごとだ。日本生まれ日本育ちの友梨は、地震の怖さをよく知っている。
「でも私は、ティンクが出て行ったのがそもそもの原因だと思う。あの家で一緒に暮らしていた頃は、そんなことなかったもの。今回のことは、やっぱり無理がきたのよ。ティンクはずっと一人で頑張ってきて、きっと疲れてしまったんだわ」
 ラウラは発電機だと言っていたが、友梨はまるで神様みたいだと思った。怒らせて、天災がきて。それをなだめるにはどうしたらいいだろう?
「私ね、ティンクには嫌われているの。だからあなたが一緒に来てくれて、心強いわ。ありがとう」
「い、いえっ! あたしこそ、なんだか押しかけてしまって……。でも、気になっていたんです。この世界がどうなっているのか、知りたくて」
 エメリンはうなずいた。
「そうね。ピーターだけに任せてはおけないわ。あの人、最近おかしいのよ。なにか隠しているみたい。だから……」
 視線を巡らせていたエメリンが、ふと言葉を切る。
「おかしいわね」
「はい?」
「時計が動いてる。魔法は止まっているはずなのに……あなたがいるからかしら」
 二人は広場を通り過ぎ、時計塔の根元の見える通りまで来ていた。友梨も時計塔を見上げた。時計といっても、少しおかしな時計だ。文字盤に数字はなく、かわりに菱形や渦巻きの図柄がある。針はなぜか四本もあって、そのうち二本は曲がっており、ちょうど開いたハサミのように見えた。
「あ、本当だ」
 ハサミの先がちくっと動いた。じっと待っていると、またひとつ動いた。
「まあ、いいわ。早く登りましょう」
 立ち止まっていても埒があかないというように、エメリンが急ぎ足で歩き出した。友梨も小走りに従う。近づくともう時計は読めなくなった。





           



2010.10.12 inserted by FC2 system