金だらいにぬるま湯を張って、犬を洗うことにしたのは、どこでつけてきたのか雪だけでなくクモの巣やら埃やらをかぶっていたからだ。床が少々汚れたが、そこは全員でぞうきんがけをすることに決めた。そもそもからして、外で遊んできた子どもたちが落とした雪があちこちで溶けて掃除が必要になっているのだ。
「こいつ、おとなしいね」
「名前、パブロっていうの?」
 洗い終わると、パブロが体をぶるっと震わせて水をまき散らし、二度手間となった。友梨は叱ったが子どもたちは笑っていた。
 一皿分のミルクと昼食の残りをぺろりと平らげたパブロは、ブラシを持ってきたソニアに毛皮をとかしつけられた。くすぐったそうに逃れようとするところを、ウルヨンとマウロが両側からがっちりガードする。
 そうやって全身ピカピカになると、パブロはなかなか立派に見えた。白くなっている首まわりの毛が、上等な襟巻きのようなのだ。毛皮が乾いたパブロは人気者だった。とにかく暖かいらしく、ひっぱりだこで抱きしめられている。
 犬のことがなんとかなったので、友梨はカップを片づけに洗い場に立った。ラウラが当然のようについてきて、すすぎを手伝ってくれる。友梨はここぞとばかりに疑問を投げかけた。
「あのね、あたしまだよくわかってないんだけど……、春が冬になったんだよね。季節が逆に巡ったってこと?」
「ここはずっと春だよ。春の森だから。ネバーランドは場所によって季節があるんだ。前までいつも通ってた夏の入り江とか、あと、冬の川もたまに遊びに行ってるよ。だからみんな手袋もマフラーも持ってんの。スケートするんだ」
「へぇー。楽しそう」
 しかしそうなると、全部の季節がごっちゃになっているのか、それとも全体に冬になったのか、どちらなのだろう。
「あと……、ティンクって、妖精のティンカーベルでしょ。どうして今は一緒に住んでないの?」
「ケンカして出てったの。扉の世界ができる前」
 ラウラは少し声を低めた。
「ティンクがエメリンに怪我させたんだって。ピーターがすごく怒って、それ以来、会わせないんだ」
 意外な話だった。怒っているピーターというのが想像できない。けれど同時に、友梨は納得してもいた。やっぱりそうか。ピーターにとってエメリンは特別なのだ。
「よく知らないけど、扉の世界を動かしてるのはティンクらしいよ。発電機みたいな感じかな。すごい魔法だよね」
「ひとりで? あれを? すごすぎる……」
 友梨が素直に同意したところで、今度こそピーターとエメリンが戻ってきた。パブロのことを説明するために、友梨は急いで手を拭き、出迎えに走った。


 外は吹雪きはじめていた。出かけていた二人の持ち帰ったカバンや袋はどれもいっぱいにふくらんでおり、中にはリンゴやナシなどの果物、栗、クルミ、キノコなどがどっさり詰まっていた。
「秋の方にも雪が降りだしていたから慌ててね。これでしばらくは保つと思うよ」
 戦利品は手分けして床下の食料庫に運び込むことになった。パブロのことは子どもたちみんなが世話をすると言い張って、友梨の出る幕はほとんどなかった。エメリンがわりとあっさり折れたので、拍子抜けしたくらいだ。
 夜になるとピーターはまた出かけていって、帰ってきたかと思うとストーブを居間の真ん中にでんと設置した。どこからどうやって運んできたのやら見当もつかないが、みんな大喜びだった。その日はテーブルを片づけ、みんなでストーブを囲んで毛布にくるまり雑魚寝したほどだ。
 はじめのうちはそれなりに平和だった。雪がやんで太陽ののぞく日もあり、パブロがお約束にのっとって庭をかけまわったりしていた。雪遊びのレパートリーも増えた。ピーターの作ったソリはいつも取り合いで喧嘩になったし、友梨の教えたかまくらは一大ブームを巻き起こした。外に出られない日は、本を読んだり、ごっこ遊びをしたり、編み物をしたり、トランプゲームをしたりして過ごす。「まるで冬休みだな」とベイセルは評した。
 みんながずっと家にいることで自由な時間が増えたのか、エメリンですらたびたびカードに参加していた。彼女には何か悩みがあるようで、時折ため息をつく。大事に育てていた窓際の鉢植えのハーブが全滅したせいだけではなさそうだ。
 幾日かぶりに青空ののぞいた日、ピーターは島の様子を見てくると言って出かけた。ピーターを見送った後、エメリンはそわそわと落ちつかなげにキッチンと居間を往復し、窓の外をのぞき、「なにかあるんですか?」とうっかり話しかけた友梨をキッチンに引っ張り込んだ。
「あなたにお願いがあるの」
「はあ」
 エメリンが頼み事とは。いったい何だろうか、と友梨は首をかしげた。エメリンは真剣な顔で、言いにくそうに口を開く。
「その……、あなたの鍵、貸してもらえないかしら」
 予想外の申し出に、友梨はどう答えていいかわからず黙った。鍵、といえばおそらく、秘密の扉に使う鍵のことだ。他には、無用の長物と化している通学用自転車の鍵くらいしか持っていない。
 反応のない友梨にじれたのか、エメリンは同じことを繰り返す。
「あなたの鍵を借りたいの。もちろん、後で返すわ。ただ、ピーターには黙っていてほしいの」
「……扉の中に、なにかあるんですか? 忘れ物?」
「そういうわけじゃないけど。まだ持っているんでしょ? 子どもたちのは、ピーターが全部回収しちゃったみたいなのよ」
 そういえば、と友梨は思い出した。
 何日前だったか、友梨も、鍵はまだ持っているかとピーターに確認されたのだ。本当はあの時、ピーターは鍵を持って行くつもりだったのか。
 そうとは気づかず、ピーターに話しかけられたことが嬉しくて、もちろんですと答えた。ちゃんと憶えている。
「なくすといけないからと思って、首にかけられるようにしたんです」
 友梨は革の紐にぶら下げてある「秘密の扉の鍵」を、服の中から引っぱり出してピーターに見せた。
「ああ、大事に持っていてくれたんだね、ありがとう」
 ピーターが微笑んだので、それだけで舞い上がった。必要のない事までぺらぺらと喋ってしまった。
「あの……、あたしの仕事はもうないんでしょうか。扉の世界は、また動き出しますよね? 前みたいに、お客さんいっぱい来るんですよね? これ、せっかくもらったのに、もう使わないのかなって残念で。春に戻るまでしまっちゃおうかなとも思ったんですけど……」
 ピーターにもらった物だから、身につけておきたかった。本当はただそれだけだった。
「そんなことはないよ。絶対、また必要になる」
 そう言って、ピーターは自身の首の後ろに手をやった。
「それじゃ地味だから、これにかけるといいよ」
 差し出されたのは、彼がいつもしていた銀鎖のペンダントだった。トップに付いているのは透明な石だ。水晶だろうか。
「え、でもあの」
 思わぬ事態に戸惑う友梨には構わず、ピーターはさっさと友梨の革の紐を外しにかかった。ピーターの両手が首の後ろに回って、もうどういう表情をしていいやらわからない。
 ピーターはするりと銀鎖に鍵を通し、友梨の首にかけると、満足そうにうなずいた。
「うん、似合ってる」
「……ありがとうございます」
 もちろん、真っ赤になっているであろう顔はあげられなかった。
 絶対、また必要になる――。あの時の力強い言葉は嘘ではないと思うのに、ピーターは扉の世界をまた動かすつもりでいるというのに、どうして子どもたちから鍵を集めたのだろう。そういう疑問とは別に、こそばゆい気持ちが蘇って、友梨は水晶の飾りの隠れた胸元を軽く押さえた。
「私に貸すのは、気が進まない?」
「え、いえっ」
 反射的に答えたが、今ここで鍵を出すのはまずい、と思った。ピーターのペンダントを友梨が持っていることに、エメリンはいい顔をしないだろう。
「それともやっぱり、もう持っていないのかしら」
「いいえ。あ、あの、じゃあ取ってきますね」
「どうして? 持っているんじゃないの?」
 冷や汗をかいた。目をまともに合わせられない。厚着をしているから、鎖は見えていないはずだが。
「ええと、それが……」
「部屋に置いてあるのね。それじゃ、お願いするわ」
「はい。わかりました」
 友梨はほっとしてキッチンを後にした。子ども部屋にはラウラがいて、鉤針でなにか編んでいた。はじめて雪が降った日以来、ラウラとはよく話す。エメリンをのぞけば、一応、友梨と一番年の近い女の子だ。さっぱりしていてあまり内には踏み込ませてくれない感じだが、他愛のない話には気軽に応じてくれる。
「どうかした?」
「うん、ちょっと」
 友梨は丸まって昼寝をしているパブロを避けながら部屋の奥まで進み、死角になる二段ベッドの上で鎖を外した。このペンダントは誰にも見られたくなかった。尖った水晶はとても綺麗だ。少し眺めてから、鍵を抜いてまた元に戻す。
「エメリンさんが、鍵を使うみたい」
「鍵? ……扉の? なんで」
「さあ」
 そうとしか答えようがなかった。友梨ははしごをおりながら、エメリンが言っていたことを思い返す。
「なにか気になってることでもあるのかな。探し物とか」
 パブロがむくりと起きあがって友梨の足元にじゃれつく。ラウラは唇に手を当てて、少し考えるような間をおいた。
「ママは、扉の中には入ったことないと思う」
「そうなの?」
 なんだか意外だった。子どもたちが出入りしているのだから、当然エメリンも顔を出しているのだと思いこんでいたのだ。
「ピーターが入るなって。だって、ティンクがいるから」
「ティンカーベルって、扉の中に住んでたの?」
「そのはずだよ。あたしも見たことはないけどさ」
 ということは、エメリンはティンカーベルに会いに行くつもりなのだろうか。
 友梨は心がざわつくのを感じた。手の中の鍵を握りしめた。
 今の状況はティンカーベルと深い関わりがある。それだけは間違いない。なのに彼女と接触しているのはピーターだけだ。エメリンは何を確かめようとしているのだろうか。知らないままでいたくない。
「あたし、行かなきゃ」
 口が勝手に動いていた。ドアを開けると、エメリンが待ちかねたようにコートを着て立っていた。そうだ、舞台裏まで歩いて行かなければならないのだ。
「ありがとう、ユリ。ちょっと出てくるから、その間」
「エメリンさん、あたしも一緒に行きます」
 エメリンの言葉を遮って、友梨は言った。
「準備をしてくるのでちょっと待ってください。あの中のことはたぶんあたしの方が詳しいです。鍵は、あたしが持って行きます」
「な……、何を言ってるの? どうしてあなたが」
 聞く耳持たずに帽子をかぶり、手袋をはめる。
「心配しないで、ママ。あたしが代わりに小さい子たち、見とくから」
 ラウラが助け船を出してくれた。
「でも」
「大丈夫。パブロもいるし」
 任せろと言うようにパブロも吠えた。友梨はその隙にブーツを履いて装備完了し、率先して歩き出した。
「さあ、行きましょう。天気が悪くならないうちに」





           



2010.10.08 inserted by FC2 system