異変が起きたのは数日後だった。
 ひそひそとささやき合う声に、友梨はゆるく覚醒して、寝返りを打った。そうするとひどく寒かった。シーツがひんやりと冷たくなっているのだ。
 ぶるりと震えて、目を開ける。朝になっているようだった。二段ベッドの上から見おろすと、チェンリェンとソニアがカーテンを開けて、窓の外を眺めていた。
 不思議なのは、そこに何の景色も映っていないことだった。
 体を起こすとますます寒さが身にしみた。チェンリェンとソニアは一枚の毛布に仲良くくるまりながら、頭をくっつけるようにして話している。友梨も自分の体に毛布を巻きつけ、足を踏み外さぬよう慎重にはしごを使った。
 ソニアが気づいて、喉を震わせない息ばかりの声で言った。
「おはよ、ユリ」
「おはよう。どうしたの?」
 チェンリェンが窓の外を指し示す。ガラス窓は白く曇っていた。濡れた一部分だけが外の景色を切り抜いている。二人のうちのどちらかが手のひらでぬぐったのだろう。
 のぞき込むと雪景色だった。
 庭一面、ブランコの上にまでこんもりと、雪が積もっている。そしてその上にもなお、白い花びらのような牡丹雪がはらはらと舞い落ちていた。
「わー……」
 友梨の声も白く曇る。いつの間に冬になったのだろうか。一瞬見惚れたが、寒さでやはりそれどころではない。チェンリェンは興奮した様子ですごいすごいとささやき続けている。雪が珍しいのだろうか。
 背後で小さなくしゃみがはじける。カリムがもぞもぞと動き出していた。二段ベッドの上でも、ミルトスが「さみい、なんだこれ」と半分寝言のような調子でぼやいている。この分では全員が起き出すのも時間の問題だろう。
 起きているのは子ども部屋の住人だけではなかった。居間の方から、言い争うような声が聞こえた。ピーターとエメリンだ。
 チェンリェンとソニアはうなずき交わして、毛布をひきずりながら移動し、そっとドアを開けて中をのぞいた。友梨もちゃっかりと後ろから参加する。
「こんなこと、今までなかったのに」
 揺り椅子に腰掛けたピーターがうつむいている。エメリンはその正面に向かい合うように立っていた。
「そんなに深刻にならないで。ただの雪よ」
「でも、季節が狂うなんてありえない」
「これまでだって色々あったじゃないの。初めてのことばかりだったわ。違う?」
「いや……。ああ、そうなんだ。だけど早すぎる。うまくいくと思っていたのに」
 ピーターがゆっくりと首を振る。エメリンが前屈みになり、揺り椅子の肘掛けに手を置いた。
「落ち着いて、ピーター。……子どもたちが不安になるわ」
 ちらりと視線を向けられて、のぞき組は首をすくめた。エメリンは微笑み、優しいママの口調で言った。
「寒いでしょう? 戸棚の中にあるコートを出して着るといいわ。ユリ、小さい子を手伝ってあげて」
「あ、はいっ」
 きびすを返したものの、友梨は気になって一度だけ振り向いた。見なければよかったと思った。
 エメリンの手を、ピーターが握っていた。


 朝食が済むとすぐ、ピーターは出かけていった。今日は仕事はお休みよ、とエメリンが宣言したので、子どもたちは大はしゃぎで雪遊びの準備をはじめた。友梨もブラウスの上に借り物のセーターを重ねて、もこもこになりながら外に出た。その頃にはもう雪は止んでいたが、充分寒かったのだ。
 年長の男の子三人は、エメリンに命じられて通り道の雪かきをしていたが、ついでに雪だるま作りにも精を出しているようだった。年少の子たちは雪合戦に興じている。チェンリェンとソニアは雪玉を投げては木に降り積もった雪を大量に落とし、きゃあきゃあと騒いだ。
 一人だけ、あまり盛り上がっていないのがラウラだ。ブランコに腰掛けて、小さい子が喧嘩にならないように見守っている。一緒に遊ばないのかと聞くと、雪はあまり珍しくないと返答された。
「それは、生まれたところで?」
「まあね。別に懐かしいとも思わないけど」
 エメリンの言っていたことを思い出して、友梨は故郷の話を切り替えた。
「ここでは、普通は降らないの? 雪って」
「そりゃあそうだよ。ここは春の森だもん」
 足元の雪を蹴って、ラウラがブランコを揺らした。
 そういえば、ピーターがそんな風に言っていた。この家はいつでも過ごしやすい暖かさだった。
 ピーターのことを思い出すと、友梨は暗い気持ちになった。
 二人はただ、手を重ねていただけだったのに、それ以上の何かを感じた。すがるようなピーターの目とか、二人の近さとか、はっきりとは聞き取れなかったエメリンの優しげなささやきとか――
 好かれているだなんて、都合のいいことは思っていなかったけれど。
 そうだ、あたしはヒロインなんかじゃない。はじめからわかってた。ただ一緒にいられるだけで良かったのに、いつの間にか欲張っていたんだ。
 鼻から吸い込んだ空気が冷たい。胸の奥まで冷えていくような気がして、かじかんだ手をこすり合わせた。
 友梨には子どもたちと違って手袋がない。けれどエメリンのいる家の中に戻りたくなかった。袖の中に互い違いに手を突っ込んで暖めながら、首を縮める。吐いた息が顔にかかって、ぬるかった。
「――が拗ねてるんだ」
 ラウラがブランコを止めて、ふいにそんなことを言った。はじめの方だけは聞き取りそこねた。
「ピーターに会いに来てもらいたくて悪さするんだよ」
「え、誰?」
「ユリは知らないよね。前まで一緒に住んでたんだ。人間じゃないんだけど、かわいい女の子」
 ネバーランドにいる、人間じゃない、女の子。
 わかった。
「ティンカーベル?」
「そう。ピーターはティンクに会いに行ったの。だからもうじき暖かくなると思うな」
 ひょいとブランコを降りたラウラが手招きする。
「ユリも一緒に雪合戦しよう。動いたら体がぽかぽかになるよ。あたしの手袋、ひとつ貸してあげるから」
 ラウラは年少組の中につっこんでいって、ほんとの雪合戦はこうやるんだよとバリケードを築き始めた。渡された手袋は小さくて友梨の手にはきつかった。けれど、温かい。
 友梨は息を吸い、鼻頭を手の甲でこすった。
「あたしも混ぜて」
 お腹に力を入れ、思い切り声を出して参加表明すると、歓迎された。戦力が公平になるからといって、ラウラとは反対のチームに引き入れられる。
 結局、へとへとになるまで遊んだ。昼になるとピーターが戻ってきた。雪だるまは完成したが、気温はいっこうに上がる様子がなかった。
「どうだったの?」
 ピーターを出迎えたエメリンが心配そうに聞いた。
「だいぶ弱ってるみたいだ。しばらく休むように言っておいたよ。どうせこの状態じゃ、扉の世界も冷え切っていて夢は集められないからね」
 ピーターが会いに行っていたという話が本当なら、弱っている、というのはティンカーベルのことだろう。そういえば、この世界に来てから一度も見ていない。いつもピーターパンの側にいる妖精、だった気がするのに。
 ピーターに話を聞いてみたかったが、またすぐに出かけるという。
「家中のカバンや袋を集めてくれ。中はカラにして」
 この指示に、友梨もあわてて自分のショルダーバッグを取りに戻った。逆さに振って、中身を適当にベッドの上に転がす。扉の世界が動かないなんて、これは思っていた以上の緊急事態だ。
 軽くなったカバンを持って行くと、ピーターだけでなくエメリンも出発の準備をしていた。どうやら一緒に行くらしい。
「ユリ、子どもたちを頼むよ」
 マフラーを巻きながらピーターが言った。
「あ、はい……」
「ユリ、これを。急いだから、ちょっと目が粗いけど」
 エメリンが走り寄ってきた。友梨に渡されたのは、アイボリーの手袋だった。
「子どもたち、もう少し体が温まってくるまで中にいさせてね。夕食の準備までには帰るようにするわ」
「あの、これ……、ありがとうございます」
「服を作るのも私の仕事だから。しもやけにならないように気をつけて」
 二人は慌ただしく出かけてしまった。吊しておいた濡れた靴下やコートが乾くのを待って、子どもたちはまた雪遊びをした。それが済むと、友梨がお茶をいれてみんなで飲んだ。冷たくなった手に、カップの熱がうれしい。
 窓の外では雪がまたちらつき始めていた。二人は大丈夫だろうか。そんなことを考えていると、扉を叩くような音がした。
「かえってきた」
 タップがまっさきに椅子から飛び降りて駆けていった。しかし、ノブには手が届かない。シェイが開けてやると、そこにいたのは雪まみれになった犬だった。
「パブロ?」
 タップが手を伸ばすと、パブロはくんくんと鳴いた。
「入れるな、入れるな」
「でも寒いんじゃない? かわいそうよ」
「怒られるって、絶対」
「こいつ、また来たのか」
「早く閉めて、風が入る」
 子どもたちは口々に言いながら、ぐるりとパブロの周りを取り囲んだ。
 友梨はタオルをつかみ、遅れてその輪に割り込んだ。
「入れてあげて。あたしが責任を持つわ。ちゃんと話せば、エメリンさんは許してくれる」





           



2010.10.04 inserted by FC2 system