森の家に戻ると、一騒動起きていた。
 子どもが何人か、家の外に出て窓にへばりつき、中をそうっとうかがっている。泣き声らしいものも聞こえる。誰かが喧嘩をして叱られているのだろうか。そんな光景は日常茶飯事だったが、友梨の予想と違ったのは、木のドアから犬が一匹飛び出してきたことだった。
「パブロ!」
 泥で汚れていたが、間違いなく見知った姿だった。パブロはまっすぐ友梨の元まで駆けつけ、じゃれついた。すっかりごはんをくれる人として認識されてしまっているらしい。
「あなたの犬?」
 鋭く飛んできた声に、思わず首がすくむ。
「い、いいえっ!」
「じゃあ、誰? 犬を家の中に入れたのは」
 エメリンは厳しい口調で追求し、子どもたちをぐるりと見回した。
「ぼくちがうもん」
「ソニアが触ってたよ」
「こいつ、俺の服かんだぞ」
「撫でただけ。見たとき、もう中にいたし」
「あんただって追いかけ回してたでしょ?」
「マウロがドアを開けたのよ、わたし見てたわ」
 この発言が飛び出すにいたって、ようやく言い訳合戦がやんだ。
「そうなの? マウロ」
 注目を浴びたのは茶色い髪の男の子。ちびっ子三人組の中の一人だ。
「あのね、わたしが帰ってきたら犬が居てね、みんなでどこから来たんだろって言ってたら」
「あ、僕も見たかも」
「マウロに聞いてるの」
 ぴしゃりと遮るエメリンに、マウロはちらちらとパブロを見ながら言った。
「だって、こいつ入りたそうにしてたからさぁ」
「それで、入れたらどういうことになるか考えないの?」
「……ごめんなさい」
 エメリンは腰を落として、マウロの顔をのぞき込むようにした。
「何かする時は、その後のことを考えてからにしなさい。いいわね。――中の掃除は、晩ご飯までに済ませること。キッチンまで足跡があるから、しっかりね」
 マウロが仏頂面でうなずく。エメリンはマウロの頭を撫でて、姿勢を戻した。
「自分も悪かったなと思う人は、マウロを手伝いなさい。さあ、みんなもう中に入って」
 エメリンが手を叩くと、子どもたちはぞろぞろとドアの向こうに消えていった。
「……あなたも入ったら?」
 ぼうっと立っていた友梨は、エメリンの言葉で我に返った。
「あ、はいっ」
 自分まで叱られたように感じて身がすくむ。パブロはさっさと姿を消していた。まったく、人騒がせな犬だ。


「また来たの? 熱心ね」
 彼が会いに来てくれた。嬉しくてたまらない。
「もうわたしのことなんてどうでもよくなったのかと思ってたわ」
 なのに驚くほど気のないセリフが唇からこぼれる。
 彼がこちらを見上げた。
「そんなわけないよ、リーダ」
 口調とは裏腹に、目がちっとも優しくない。乾いた心が悲しみに満たされていく。
「あなたの言うことなんて信じられないわ」
「困るな。そんな風に言われると何も言えない」
「あ、そう。じゃあ帰ったら?」
 行かないで、行かないで。
「冷たいな。仕方ない、出直すよ」
 あっさりしたものだ。食い下がってもくれない。
 いつだってそうだ。ご機嫌を取るポーズを取るだけだ。自分ではどうしようもない冷たさが心の中に降り積もっていった。


 夢の中で夢を見てしまった。
 毛布に顔を半分うずめたまま、友梨は目を開けてぼんやり思った。閉められたカーテンの隙間から薄い光が差し込んで、子ども部屋をほのかに照らしている。
 不思議な夢だった。ピーターと二人きりというのは願望そのものだったが、本物よりずいぶん愛想のないピーターだったのが悲しい。せっかく見るならもっといい夢がいいのに。
 子どもたちはまだ寝息を立てている。油断するとぎしぎし音を立てるはしごを注意深くおりて、友梨は部屋の外に出た。早起きは三文の得だ。パンを焼いているピーターの姿を見られるかもしれない。
 広い居間にはすでにパンの焼けるいい匂いが充満していた。
「あら、早いのね。おはよう」
 ポテトサラダとウィンナーの載った大皿を手にしたエメリンが、友梨を見つけて言った。テーブルの上にはパンを並べるための籠やジャムの瓶などがすでに用意されている。
「お、おはようございます」
 友梨が部屋を見回しているのに気づいたのか、エメリンが簡潔に答えをくれた。
「ピーターなら粉を挽きに行ったけど」
「……そうですか」
 困ったことになった。エメリンと二人きりなんて初めてだ。緊張する、というか落ち着かない。
 エメリンは大皿を置くと、キッチンに戻っていった。ふだんはカーテン一枚で仕切られているのだが、それが開きっぱなしなので、同じ部屋にいるのと大差ない。エメリンはスープの鍋をかき混ぜている。
「あの、何か手伝いましょうか」
 却下されたらどうしよう、と思いつつ声をあげると、エメリンはちらりと友梨を見た。
「そうね、お皿を出してくれる?」
「はいっ」
 友梨はすぐに棚に向かった。
「待って。その前に手を洗って」
「はい!」
 ラウラが手伝うのを何度か見ているから、どこに何があるかはだいたい把握できている。
 どの皿がいるのかとか、細かい指示を仰ぎながら、どうにか全部並べ終えた。スプーンまでしっかりと。
 終わってしまうと、また手持ち無沙汰になる。
「あの、他には……」
 スープの中に刻みパセリを入れながら、エメリンは少し笑った。苦笑だったかもしれない。
「別に、気をつかわなくてもいいのよ」
「え、いえ、そんな。エメリンさんにはお世話になっているので……ええと……いつもごはん美味しいです」
 しどろもどろになりつつ、友梨は答えた。
「ありがとう。でも、それは私の役目だから。あなたにはあなたの仕事があるでしょう」
 スープの鍋を火からおろしたエメリンが、友梨に向き合う。
「夢って個人差が大きいのよ。モノクロの夢もあれば、匂いのある夢もある。とぎれとぎれのシーンを再生する夢もあれば、一本の糸で繋がれた長いストーリーの夢もある」
 ふわりと漂ってくる香りに、友梨は空腹を感じた。それすらも幻だろうか。
「あなたは夢をみる力が強いんですって。記憶力、再現力が強くて、色鮮やか。あなたが扉の世界にいると、それだけであの場所にかけられた魔法を活気づける効果がある。だから……あなたは今のネバーランドに必要なの。私に気をつかう必要はないわ。ピーターが説明しなかった?」
「いえ、全然……」
「ほんとにもう、大雑把なんだから」
 友梨はその言い方にむっとした。まったくうちの子は――というような調子で、悪意は感じられなかったが、かちんときたのだ。そりゃあ、エメリンの方が長いことピーターと一緒にいるのは事実だし、その分彼の内面をよく知っているのかもしれないが。
 いや、ピーターはよく気のつく優しい人だ。友梨はいくつものやりとりを心の中から引っぱり出して並べ、反抗した。表には出さなかったが。
「とにかく私たちは助かってるけど……、あなたはいいの? ここにいても」
 エメリンは子ども部屋の方をちらりとうかがってから、友梨をひたと見据えた。
「あなたはあの子たちとは違うわ。いつまでもここにいるというわけにはいかないでしょう」
 その言葉の裏がわからない友梨ではなかった。帰った方がいいと言われているのだ。
「この家にいるのはね、戻りたくない、戻れない、そういう理由のある子ばかりなの。あなたは逃げ出してきたわけではないでしょう? 現実に、帰るところがあるのでしょう?」
「でも……。でも、今、必要だって言いましたよね」
「それはそうよ。だけどそれはこちらの事情なの」
 あなたのために忠告している、これは善意だ、といわんばかりの内容だったが、エメリンの口調は事務的だった。友梨はますます反感を覚えた。
「あたし、ピーターと約束しました。ここで手伝いをするって。だから、だからあたし、まだ帰りません」
 さっきのぼやきにモヤモヤしたのは、ピーターを悪く言われたからではない。エメリンの方がピーターを深く理解しているのだということを、ことさらに見せつけられたように感じたからだ。
「あなたはわかっていないのよ。ネバーランドのことも、ピーターのことも」
 エメリンの声に、わずかな熱が宿った。
「それじゃエメリンさんは、ピーターのこと全部わかってるって言うんですか?」
 エメリンは無言で眉を上げた。美人なだけに迫力がある。友梨は負けじと唇を引き締め、鼻から息をすって胸に力をためた。
 エメリンは何か言いかけて、口を閉じた。いらいらとエプロンの裾をつかみ、放して、そして友梨を見ずにぽつりとこぼした。
「そうね、もちろん、わかってなんかいないわ」
 それから二人は、子どもたちが起き出すまでひとつも言葉を交わさなかった。





           



2010.10.02 inserted by FC2 system