何日か経つと、友梨にも子どもたちのほとんどが判別できるようになった。一番に憶えたラウラは、いつもエメリンの手伝いをかって出ている。年長の自覚あってのことか、他の子に対する面倒見もいい、しっかり者だ。次に大きいのが、おそらくベイセル。育ち盛りだからか、おかわりが誰より多い。そのベイセルとしょっちゅう喧嘩をし、それでいて誰よりよく一緒にいるのがメガネをかけたミルトスだ。彼とは秘密の扉でよく会う。今日はスリの役だ、とかぶつぶつ言っていた。
 上から順に並べていくと、次はシェイ。彼については、いまだにどういう子なのかつかめないでいる。わかっているのはとてつもなく無口だということだけだ。チェンリェンはその名前からして中国人らしい。黒髪をさっぱりと短くした女の子だ。チェンリェンと仲良しなのがソニアで、絵を描いていると寄ってくる。甘えん坊のニナはエメリンにべったりで、友梨には寄りつかない。困るのがちびっこ三人組で、元気な四、五歳の男の子たちなのだが、誰が誰かまだ定かでない。ぽっちゃりとした褐色の肌の子が確か、カリンとかカナムとかそんな感じの名前だ。
 一番年少のタップは、たまに話してはくれるのだが、相変わらずの引っ込み思案だ。そして、パブロはあれからも度々ごはんをねだりに現れている。
 相変わらずといえば絵のこともそうだ。何を描いても納得いかなかった。今日は橋の上に陣取って、川を主題にしてみたのだが、どうしても違和感がある。
「あたしの絵じゃないみたい……」
 スケッチブックを掲げて眺めながら、ひとり呟く。しかし、どんなものが自分の絵なのかといえば、友梨自身にもよくわからないのだった。
 お客さんとピーターの家の子ども以外の、扉の世界の登場人物はといえば、蜃気楼のようだった。井戸端会議のおばさんたちとは決して視線が合わないし、公園の売店にいるおじさんに声をかけても返事がない。リアルな立体映像、というところだろうか。お客さんは彼らともやりとりできるようなのだが――もしかしたら自分も、この扉の中では立体映像になってしまっているのではないか、などと思ったりする。
 お客さんは、友梨が会うだけで一日に五十人くらいはいた。キャンディーの籠は毎日からっぽになる。夕日が沈む頃に扉の世界は止まり、森の家に帰って一日が終わる。
 今日もキャンディーは残り少なくなっていた。スケッチブックを膝にのせて伸びをする。もう諦めて次のページに行こうか。そう考えていると女の子の声が聞こえた。
「もう疲れた。帰ろー」
 振り向いてみると、お客さんだった。男の子と女の子、手をつないだ二人連れだ。
「なんだよ、さっき来たところだろ」
「だって、お兄ちゃんばっかり……」
 お兄ちゃんはたぶん十歳くらいで、妹は小学校にあがるかあがらないか、といったところだろう。妹の方は小さすぎて、謎解きが楽しめないのかもしれない。友梨は軽く腰を浮かせて声をかけた。
「ねえ、おねえちゃんが似顔絵描いてあげよっか」
 妹の方はきょとんとして友梨を見た。
「にがおえ?」
「いいじゃん。描いてもらえよ」
 お兄ちゃんのすすめに妹がうなずいたので、友梨は折りたたみの椅子を彼女に提供した。友梨自身は地べたに体育座りだ。こんなことにもすっかり慣れた。
「マルカ、動くな。ゆがんでる」
 お兄ちゃんが妹の髪のリボンを直す様がほほえましい。
「なかよしだね」
「別に」
「うん。お兄ちゃん優しいよ」
 妹が足をぱたぱたさせる。お兄ちゃんをあんまり待たせてもいけないので、友梨は手早く鉛筆を走らせた。
 そういえば、うちの弟どうしてるかな。友梨はふいにそう思って、それまで一度も思い出さなかったことに驚いた。現実はひどく遠くなっていた。お母さん、クラスの友だち、名前はなんて言ったっけ?
 すうっと体が寒くなった。耳鳴りがする。
「おねえさん?」
 呼ばれて、友梨ははっと顔を上げた。
「あ、ごめんね」
 集中して絵を仕上げた。急いで描いた分、少し雑になったが、喜んでもらえてほっとする。描いた一枚を破ってプレゼントし、あとで食べてねとキャンディーを渡す。兄妹を見送りながら手を振って、友梨はふたたび椅子に腰掛けた。
 離れそうになる記憶の糸を必死でたぐり寄せる。扉の前に何があった? 不思議なアーチをくぐるその前は。あれは何曜日だったっけ? いつものように出かけて――そうだ、学校に行ったはずだ。休みじゃなかった。期末テストの前、いや、後だ。それから――それから――
 スケッチブックを握りしめていた手の甲になにかが当たった。水滴だった。頭に、肩に、ぽつりぽつりと落ちかかる。
 雨だ。いつの間に空は雲に覆われていたのだろう。次第にリズムを速めていく雨粒が、石畳の色を濃く塗り替えていく。
 友梨はあわてて椅子をたたんだ。とりあえず、どこか雨宿りのできる場所を探さなければいけない。
 キャンディーの籠を濡れないように胸に抱いた時、雨の落ちる音が頭の真上で大きく響きだした。
「え?」
 緑にかげった世界に驚いて振り仰ぐと、ピーターが傘をさしかけて立っていた。深い森の色の傘だ。
「間に合った?」
 友梨の胸がどくんと跳ねた。
「あ、はい。絵はたぶん濡れてなくて……」
「そうじゃなくて」
 ピーターは瞳を細めながら軽く笑った。
「風邪をひくよ」


 相合い傘、という言葉を意識して、友梨の頬は上気する。橋から靴屋の軒下までの距離は実にあっけなく、それを惜しんでいるのが自分だけなのがなんだか恥ずかしかった。
 ピーターは傘を閉じ、その先でトントンと地面を叩いている。友梨は服についたしずくを指で払いながら、ちらちらとその様子をうかがった。横顔だと形のいい鼻のラインがよくわかる。金の髪はとても細く、触れればさらさらと音がしそうだ。長いまつげの下にある瞳は、くすんだ紫。この目が一番不思議なのだ。見るたびに色合いが変わる。日によっても光の加減によっても違う。でもいつもとても綺麗だった。
「普段は降らないんだけどね。……調子が悪いみたいだ」
 尖ったところのない心地よい響きの声が、白い歯ののぞく唇からこぼれ出る。
 確かに、急な雨には「お客さん」も困るだろう。こんなことは初めてで、今までも毎日ずっといい天気だった。あの兄妹は濡れていないだろうか、と心配になる。
「大丈夫、すぐに止むと思うよ」
 まるで友梨の心を見透かしたようにそう言って、ピーターは空を見上げる。
 けれど、雨が上がることを考えると友梨は寂しくなった。せっかくの雨宿りが終わってしまう。晴れたら、ピーターはすぐに行ってしまうだろう。
 そう考えて、ふと気づいた。ピーターはここにいる必要など無いのだ。あのどこでもドアですぐに帰れるのだから。
 それなのに、どうして隣にいてくれるのだろう。
「繁盛しているみたいだね」
 ピーターは友梨の抱えた籠の中から、キャンディーをひとつつまんだ。包み紙の両端を引っ張って、長方形のミルクキャンディーを剥き出しにする。
 それで、食べるのかと思えば、友梨の口につと差し入れた。
 唇にピーターの指が触れた。なにが起きたのか一瞬わからず、頭の中が真っ白になる。あやうくキャンディーを飲み込みそうになって口を手で押さえる。こらえた。
「美味しい?」
 友梨はうなずきだけで返事をした。雨のせいで寒いくらいなのに、体中が熱かった。
「ユリが来てくれて良かった。本当に助かってるよ」
「い、いえ、そんな……」
「なにか困っていることはない? 相談に乗るよ」
 うまく喋れないのは舌の上の甘い味のせいだけではない。小さく首を振るだけにとどめて、友梨は動悸を収めることに努めた。
「遠慮しないで何でも言って。イーゼルとか、用意しようか?」
「いいんです。そんなたいした物は描けないから」
 口の中でキャンディーがカランと転がる。
「またそうやって謙遜する。ユリは巧いよ、本当に」
 ピーターは、あたしと話をするために、ここに留まってくれているんだ。
 友梨はそう思って、嬉しくなった。新しい「従業員」を気づかってのことかもしれないが、それでも嬉しい。こんな風に二人だけでゆっくり話す機会はあまりなかった。家に戻ればいつも子どもたちとエメリンがいるからだ。
 そう、一番困っていることを正直に話すとすれば、それはエメリンとのことなのだった。全く相手にしてくれないというわけではないが、用のない時以外はいないものとして扱われているように感じる。露骨に冷たくされているのではなく、よそよそしいというか、はっきり言えば嫌われているのだ。友梨はどう接していいものやらわからない。なにか話しかけた方がと思っても、彼女はたいてい忙しく家事に追われている。手伝おうとするといいと断られる。
 エメリンは家族の中心だった。ピーターだってそうなのだが、子どもたちと一緒に遊ぶことはしても、問題ごとは全部「ママ」のエメリンに任せきりなところがある。そんな中で、共同生活の要である彼女に受け入れられていない現状は、苦しかった。居心地が悪いのだ。
 けれどそれを相談する気にはなれなかった。ピーターの前でエメリンを悪く言いたくないという打算からではなく、単純に、せっかく二人きりでいられる時にエメリンの話をしたくないという、ささやかな独占欲からだ。
 そんな友梨の心の内に気づくはずもないピーターは、包み紙のシワをのばして広げ、縦にしたり横にしたりしている。
「それ、謎解きの……」
「そう。求めるものを浮かび上がらせてくれるんだ」
 お客さんではなくても、魔法は手がかりを示してくれるのだろうか。
「矢印かな? 進みなさいっていう……でも、どっちに行けばいいかわからないね。はい、どうぞ」
 手渡された包み紙には、正方形の横に三角形を重ねたような一筆書きの図柄があった。くるりと回して、友梨は三角形を真上にした。
「家……じゃないんですか?」
「ああ、なるほどね。君が思ったのなら、きっとそうだよ」
 友梨はなおもくるくると図形を回した。でも別に、なにか探しているわけではないのに。
 もう一度、家に見える向きに戻した時だった。
「あ、あがったね」
 そう言ってピーターが一歩進み出た。友梨も空を見た。矢印の示す通りに。
「ほんとだ……」
 がっかりした。もう少し降っていてくれて構わないのに。
 空はまだ白くよどんでいたが、雨音は遠く消えてしまった。
「それじゃ、後しばらく、ここを頼むよ」
 ぽんと肩を叩いて、ピーターは傘を片手に歩いていく。裏口まで行くのだろうか。確かに、せいぜい五分くらいのものだが――友梨は見送りながら不思議に思った。やっぱり、あの便利な白い扉には使用制限とか、あるのだろうか?
 軒下に駆け込む時にはピーターの持っていてくれた椅子を、今度は自分で持ち上げて、友梨は歩き出した。一枚でいい。ともかく、満足できなくても最後まで仕上げてみよう。ピーターに見てもらいたいから――
 まだ幸せの余韻が残っている。口の中にも小さく薄くなったミルクキャンディーがある。
 軽い足取りで水たまりをよけて橋へと戻る、その途中で、友梨は足元の揺らぎの中をなにかが横切るのを見た。
 空を飛んでいく大きな鳥? いや、違う。
 友梨は振り仰いで、薄曇りの空を見た。時計塔の尖端よりさらに高み、手から離れてするすると宙に逃げていく風船のように昇っていく人影。
 ピーターだった。
「えっ!」
 驚いて見直すと、雲の切れ間から青空がのぞいているだけだった。
 幻覚だろうか。置物のカエルが動いて見えたように。
 友梨はしばらく空を見ていたが、現れたのは虹だけだった。





           



2010.09.30 inserted by FC2 system