新しく渡された服に着替え、パンと焼きトマトとミルク、そしてデザートにオレンジゼリーがついた朝食が済むと、友梨はエメリンに呼びつけられた。
「なんですか、これ」
「見てわからない? バケツとふきんよ。ここの掃除を頼むわ。私はシーツを洗濯してくるから」
 はい、と答えるところだった友梨の手を、ピーターが引く。
「ユリはこっちだよ」
「ピーター!」
 エメリンが鋭い声で抗議した。
「家の手伝いをしてもらうために来てもらったんじゃないんだ。ユリには力がある。だってそうだろ? このなりだもの」
「……本当に?」
 疑いの目で見られて、友梨はどういう顔をしていいかわからなかった。話についていけないのだ。
「昨日の安らぎの扉は格別だったよ。君にも見て欲しかったな」
「それなら……その方がいいわね。わかったわ」
 友梨にはさっぱりわからなかった。言われるままにカバンを用意し、ピーターについて歩く。昨夜の道だ。明るい中だとまた違った印象で、柔らかい日差しに混じった若葉の香りがした。木の上でリスが追いかけっこをしているのも見えた。
 たどり着いたログハウスの中でピーターが鍵を一つ取り出す。昨日の銀色の鍵ではなく、木の鍵だ。友梨のイメージする普通の鍵と違ってギザギザがない。ちょうどピアノの鍵のような感じに、でっぱりがついているだけだ。
「これをユリにあげる。なくさないようにね」
 ピーターは壁に立てかけられた小舟を持ち上げて移動させた。隠れていた扉はチャコールグレイ。
「裏口だよ」
 友梨は指し示されるままにもらった鍵を差し込んだ。カチンと音がしてロックが外れる。引き抜いてノブを回すと、そこは小さな部屋だった。赤い絨毯、白地に紫のツタ模様が広がる壁紙、天井にはシャンデリア、暖炉の上にいくつもの鏡。おずおずと踏み込んだ友梨の目をもっとも引きつけたのは、でんと据えられたデスクの上に座る、リアルなカエルの置物だった。占い師が使うような、いかにもなミニざぶとんの上に置かれた水晶玉をのぞき込むそのカエルは、ウシガエルより大きい。ぎょろっとした目がいまにも動きそうで不気味なのに反して、首にはラブリーなピンクのリボンを巻きつけている。
「ユリ、こっち」
 ピーターはさっさと部屋を横切って、もう一つの扉に手をかけていた。友梨もあわててついて行く。ドアの向こうはもう屋外だった。パイプの手すりのついた狭い階段を下りると、煉瓦で舗装された道につながっている。
 旅行番組で見るような、異国の町並みだった。西洋風なのだが、どこか現実のそれとは違っている。しんと静まりかえっているからだろうか?
「ここは、子どもだけの世界。夢を育てる場所なんだよ。そしてネバーランドは、彼らの夢の力で動いているんだ」
 そう言いながら、ピーターは肩にかけていたナップザックを下ろした。
「扉の世界は、夢を効率よく集めるための仕掛けさ。いろんな夢に対応できるように、ジャンルを分けてある。ここは秘密の扉。お客さんは謎を解く探偵役。そして」
 中から折りたたみ椅子を引っ張り出して広げ、左右を見回してから道に面するように置く。たったそれだけの動作でも、なめらかで隙がない。
「君は町の住人。物語の登場人物になるんだ。絵描きさんがぴったりだと思うよ」
 ベレー帽をかぶせられながら、友梨はまたしてもピーターの笑顔に魅了されていた。
「ここではみんなが違った事件を追うんだ。町自体にも謎があふれてる。うろうろしてると迷ってしまうかもしれないから気をつけて」
「えっと、でも、どうやって夢を集めれば……」
「ははっ。そんな心配をしていたの? 大丈夫、お客さんがここで楽しんでくれれば、それで事足りるんだよ。たとえば君がここで絵を描いていると、いろいろと不思議なことを目撃するかもしれない。そしたら、君はヒントとして、やってきたお客さんにそれを話してあげてほしい。もちろん、似顔絵を描いてあげてもいい。自然に、楽しく過ごしてくれればいいんだ。なにも難しいことはないよ」
 ピーターは友梨を椅子に座らせ、その膝の上に編み籠を置いた。
「あと、謎を追うのに疲れてる子にはこれ」
 中に詰まっているのはキャンディーだろうか。色とりどりの包み紙が可愛い。
「それじゃ、ここは任せたよ。昼食はあとで届けるからね」
 ピーターは挨拶がわりにか軽く片手をあげて、行ってしまった。もうちょっと居てくれてもいいのに、と思いながら見送り、それから首を上向けて、ついさっき通ってきた扉のある建物を見上げる。二階にあったあの部屋から、ピーターは「舞台裏」に戻っていくはずだ。閉まった窓の向こうに藍色のカーテンがかかっている。そして、こちらを見下ろしているカエルと目があった。
「えええええ!」
 思わず椅子の上でひっくり返りそうになって、友梨は脚をばたばたと動かした。せっかくのときめきも霧散してしまった。反らせていた背中を元に戻し、安定を得てから立ち上がって建物に向き直り、二階をにらむ。視力には自信があるのだが、何もなかった。藍色のカーテンはぴくりともしない。それはそうだ、窓は閉まっているのだから。
 錯覚だろうか。いや、でも、この世界はなんでもありだ。友梨は首を振った。カエルそのものは特に苦手というほどでもないが、あんなでかガエルがいきなり飛びかかってきたりしたらいくらなんでも怖い。
 友梨はしばらくじっと窓を見上げていた。
「……だ、大丈夫、だよね?」
 それでもなにか安心できないので、椅子をたたみ、抱えて移動した。せっかくピーターが準備をしてくれた場所だが、絶対に動くなと言われたわけじゃないし……と、心の中で言い訳をする。
 それにしても、あちこちにかけられた看板からして、どうやらこの通りは商店街のようなのだが、通行人がいない。店の中にも人の気配がない。それどころか、猫の子一匹いない。
「どうなってるの、これ」
 思わず疑問が口をつく。
 公園とおぼしき広い場所に出たが、やはり静かだ。ふとピーターの言葉を思い出した。
 謎があふれてる。うろうろしてると迷ってしまうかもしれない――
 戻ろう。そう思って回れ右した途端、どこかで鈴の音がした。りん、りん、りん……空から聞こえた気がして顔を上げると、大きな時計塔が見えた。
 次の瞬間、心臓がどんと押し上げられそうなくらいのボリュームで鐘の音が鳴り響いた。友梨はたとえではなく実際に数ミリほど飛び上がった。
「な、な、なにっ……」
 背後で鳥が何羽か飛び立った。シャワーのような音もした。乾いていた噴水が動き出したのだ。風と一緒にざわめきがやってきて、商店の扉が開き、トンテンカンテン、どこから現れたのか馬がいななき、車輪が回り、行き交う靴の音、笑い声、客引きに咳払い、あっという間に周囲がにぎやかになった。
 道の真ん中に立っていた友梨はあわてて端に寄り、交通事故を免れた。
 魔法がこの町に命を送り込んだに違いない、と友梨は思った。鐘の音を合図にショーが始まったのだ。まもなく、お客さんも訪れるだろう。
 世界が暖かくなったことで、なにもかも心配いらないという気がした。ここは守られている。カエルに襲われるなんて、ありえない。
 友梨はピーターが椅子を置いてくれた場所まで駆け戻り、腰を下ろして荷物を開けた。スケッチブックの白いページに、さて、なにから描こうか?
 ピーターはちゃんと考えてこの場所にしてくれたのだろうか、きっとそうに違いない。目の前の景色は、動き出したとたん魅力的になった。等間隔に続いている街灯のデザインが可愛い。向かいに見えている建物と建物の間から、石造りの橋がのぞいている。赤い屋根の上には風見鶏。さっきの時計塔も、広く切り取れば画面の端に入れられる。
 うまく描けたら、見てくれるかな。
「よおしっ」
 気合いを入れて、鉛筆を走らせた。傑作ができそうな気がしていた。


 だというのに、全体を写し終える頃になってやっぱり、何かが足りないと感じるのだ。お客さんは何度か訪れた。きょろきょろしている小さな子どもは、風景の中にとけ込んでいないのですぐにわかる。手招きして話をし、キャンディーを渡すと誰もが喜んでくれた。どうやら包み紙の中に、ヒントのような暗号が書かれているらしい。アメの形もばらばらで、普通のマルからハートから、サイコロ、ねじれ、とにかく色々あるのだった。
 好きな絵を描いて、通りがかりの子どもと話をしていればいいのだから、これはかなり楽な仕事といえた。これで思うままにいい絵が描ければ最高なのだが。
「そううまくはいかないかー」
 両足をまっすぐにして伸びをしていると、袖のあたりをくいくいと引っ張られた。
「んっ?」
 横を見ると、頬にそばかすの散った三歳くらいの男の子が立っている。なにか言いたげにじっと見つめてくる黒い目に、友梨は見覚えがあった。これはお客さんではない。ピーターの家の子だ。
「どうしたの? 用事?」
 男の子はちょっと下がって、両手でバスケットを持ち上げた。中身はサンドイッチだ。
「あ、お昼ごはん!」
 こくりとうなずく男の子の頭を撫でると、恥ずかしそうに避けられてしまった。この子は確か、あそこにいた子どもの中でも一番小さかった。だというのに、ひとりで届け物をしてくれるなんて。
「ありがとう」
 バスケットを受け取ると、男の子はまたこくこくとうなずいた。
「ねえ、お名前は?」
 せっかくだから一人一人覚えていこう。そう思って聞いてみたが、返事がない。
 友梨は次の言葉を探した。どうしたら打ち解けてもらえるだろうか。エメリンはどういう風に話しかけていただろうか。
 と、男の子が小さく声をあげた。足元に犬がまとわりついている。男の子はたたらを踏んでぺたんと尻餅をついた。
 犬はするりと巻き添えを避け、オンッと鳴いた。茶色と白のふさふさの毛並みが柔らかそうだ。
「だ、大丈夫?」
 男の子に手をさしのべると、素直につかまってきた。犬が今度は友梨にじゃれついてくる。
「……お腹すいてるのかな」
 幸い、サンドイッチはたっぷりあった。ひとつをそっと差し出すと、すぐに食いついてたちまちのうちに平らげる。さかんにしっぽを振っているのは、おかわりを要求しているのだろうか。
 男の子は友梨の後ろに隠れるようにして犬を見ていた。怖さ半分、興味半分のようだ。
「あげてみる?」
 サンドイッチをひとつ渡すと、男の子は思いきったように前に出ていったが、一度ほえられただけで取り落とした。
 地面に落ちたサンドイッチをがつがつ食べている犬に、男の子はこわごわ近づいて、そっと触った。
「かわいいね」
 男の子はまたしてもうなずきで同意を示した。友梨は自分もサンドイッチをつまんだ。レタスときゅうり、ハム、ゆで卵がはさまっている。
「おいしい。これ、エメリンさんが作ったの?」
「うん。ママとね、えっとね、ぼくとニナがお手伝いしたの」
 はじめて返事がもらえた。
「そうなんだ。偉いね」
 男の子は黙ってうつむいた。それを励ますように、犬が頭をすり寄せる。そういえば、と友梨は気づいた。昨日と同じ犬だ。安らぎの扉にいた、あのときの犬だ。
「ぼく、タップ」
 ふいに男の子が言った。
「おなまえ」
 友梨は急いでサンドイッチを飲み込んだ。
「そっか。タップくんか。よろしくね」
「うん」
 タップははにかんで、犬をきゅっと抱えた。
「このこは?」
「え、なに?」
「おなまえ」
 犬はくりくりの目で友梨を見、ワンと鳴いた。首輪もついていないし、野良だろうか。
「えっと……」
 適当につけてもいいよね。友梨は考えを巡らせた。
「じゃあ、パブロ」
「パブロ? ふーん」
 タップが犬の顔をのぞき込む。名無し改めパブロは、わうと吠えてぐるぐる回った。
「パブロ、パブロ」
 タップはそのしっぽを追いかけるようにちょこちょこ歩いた。あんまり可愛かったので、友梨は次のサンドイッチに手を伸ばすのも忘れてしばらく一人と一匹を眺めていた。





           



2010.09.28 inserted by FC2 system