今度の扉は閉まっても消えなかった。それは小さなログハウスに取り付けられていた。背の高い木々の間にぽつんと建てられた小屋の奥行きは、どう見てもさっきまでの「舞台裏」を収納できるとは思えない短さだ。
「ここは春の森。遅くなったから、少し急ぐよ」
 とうに歩き出していたピーターに声をかけられ、友梨はそれ以上の観察を断念した。
 もう日が沈んだのか、周囲は暗い。けれど木の枝についた白い花たちが、近づくたびにぽっと明るく光を灯してくれるので歩くのには困らなかった。なんて便利な外灯だろう、と見上げながら友梨は思う。
「みんな一緒に住んでるんだ。ちょっと騒がしいけど、ユリなら大丈夫だよね」
 みんな? 働いてる人たちの宿舎みたいなのがあるんだろうか。ああ、そういえば確か、ピーターは小人たちと一緒に暮らしているんだった。あれ、それは白雪姫だったっけ?
 ピーターパンの話ならよく知っていると思ったが、ストーリーの流れはもうおぼろげだった。何度も本で読んだし、テレビでも見たのに。
 小さい頃の記憶なんて、あてにならないな。友梨はそう考えながら、ピーターの背を追いかけていた。
 彼に誘われて、ネバーランドにやってくるヒロインの名前は、ウェンディ。
 これから冒険がはじまるのだろうか。
 楽しみだけど、危ないこととかあったらどうしよう。そんな心配をしながら歩くとついつい遅れがちになってしまって、そのたびに友梨は小走りになった。
 しばらく行くと、友梨が想像していた通りのかわいらしい木の家があった。いや、想像したからこそその通りの家が出てきたのだろうか。丸太を組み合わせた平屋で、屋根には小さな煙突が突き出し、そこから薄い煙が立ちのぼっていた。庭には切り株のベンチと小さなテーブルがあり、その隣には木の枝からぶらさがった手作りのブランコ。二人乗りしていた女の子たちがあっと声をあげて足でブレーキをかけた。地べたに座り込んで絵を描いていたらしい男の子も顔を上げた。木の上からも男の子がふってきた。
「ピーターが帰ってきた!」
「おかえり、ピーター」
「おそいよ、ピーター」
「ピーター、その人だれ?」
 駆けつけた子どもたちが口々に言う。木のドアが開いて、そこからも次々に子どもが出てきた。一体何人いるんだろうか。取り囲まれてあっけにとられていると、ピーターが声をはりあげた。
「みんな、聞いてくれ」
 急にしんと静かになる。子どもはみんな、保育園児から小学生くらいという感じで、背丈も表情もばらついていた。神妙だったり、興味津々だったり、ぼんやりしていたり。
 まるで託児所みたいだ、と友梨は思った。
「今日から仲間になる、ユリだよ。親切に、仲良くしてあげてほしい。いいね」
 はい、はい、はーい、とまばらに声があがる。友梨は多国籍な色とりどりの頭の数をこっそり数えた。十一人もいる。
「どういうこと?」
 と、まだ一人いた。
 戸口のところで腕組みをして立っている十二人目は、他の十一人とは明らかに違っていた。薄暗い中で部屋の内側からの光を背中に浴び、くっきりと浮かんだシルエットは幼い子どものそれではない。
「ただいま、エメリン」
 ピーターの言葉に、人影が歩き出す。逆光が弱まると、真っ白いエプロンに長い三つ編みの少女があらわれた。表情といい口調といい、明らかに怒っている。
 空気を察したのか、ピーターと友梨の周りに集まっていた子どもたちがそろそろと輪を広げた。
「ただいま、じゃないでしょう」
 凛とした声で問いかける少女は、友梨より年上のようだった。そう、ちょうどピーターと釣り合うくらいの。
 なんだ、もうウェンディがいたんだ。
 そう思った瞬間、しぼんでいく心を友梨は感じた。
「まさか、この子扉から連れてきたの」
「うん、まさかそうなんだ」
「ふざけないで。見たところ、行き場のない子じゃないわよね。こんなに突然、みんなに相談もなく連れてくるなんて――」
「人手が足りないって言ってたのは君じゃないか」
「だからって!」
「彼女がいいって言ったんだよ。ねえ、ユリ」
 少女はそこでようやく友梨に目を向けた。きっと睨みつける顔でさえ魅力的だった。とてもかなわないような美少女だ。
「ユリ?」
「え、あ、はいっ!」
 ピーターに二度呼ばれて、友梨はようやく我に返った。
「あの、あたし頑張ります。しっかり手伝います。だからよろしくお願いします!」
 頭を下げた友梨は、ため息の音を聞いたような気がした。
 ああ、やっぱり早まったかもしれない。来てはいけないところに来てしまったかも。
「ね。だからいいだろ、エメリン」
「……もう決めたんでしょ? だったらいいわ。好きにして」
 少女はきびすを返して、ぐるりと子どもたちを見渡した。
「さ、食事にしましょう。みんな中に入って、手を洗うのよ。ベイセル、タップとカリムを見てあげて」
「ママ、あたし手伝う」
「ありがとう。じゃあラウラはこっちに来て」
 あっという間に家の中に引き上げた十二人を、友梨はぽかんと突っ立って見ていた。
 ママと呼ばれてはいたものの、まさか彼女が実の母親ではないだろう。ラウラという女の子は友梨よりちょっと背が低いくらいで、少なめに見積もったって十歳以下とは思えない。あんな年の子どもがいるとしたら、エメリンは恐ろしいくらいの若作りということになってしまう。
「あの、ママって……」
「エメリンのこと? 君もそう呼びたいなら呼んでいいよ」
 ピーターはさらりととんでもないことを言った。
「ええええ、いえ、遠慮します」
「そうだね。同い年だしね」
「え、でもエメリンさんって」
「十四だよ。違った?」
 違わなかった。絶対年上だと思っていたのに。
「さ、怒られる前に僕たちも中に入ろうか?」
「あ、はい」
 そうか、外国の人だから大人っぽく見えるんだ。友梨はそう納得して、そして訊いてみた。
「あの、じゃあ、ピーターは?」
「僕? 僕はね……」
 ドアの前で立ち止まったピーターは、しばらく考えるように首を傾けてから、笑って言った。
「もう忘れちゃったな」


 にんじんとじゃがいもが入ったあつあつのシチューに、アスパラのサラダ、それから丸パン。全員がテーブルにつくまでが一騒動だったが、どうにか夕食になった。友梨は好奇心旺盛な子どもから次々と投げかけられる質問に答え続けていた。
「どこの国からきたの?」
「ユリはいくつ? ぼくはマウロ」
「ねえねえ、逆立ちできる?」
「はい、バターあげる」
「ちょっとニナ、こぼしてるよ!」
「絵を描くの? わたしも大好き」
「ミルトスが僕のパンとったー」
 だんだん、どの質問に答えていいやら判らなくなってきた。誰が誰なのかすらさっぱりだというのに。
 混乱している友梨とは対照的に、エメリンはきびきびと場を仕切っていた。金髪の女の子がこぼしたシチューを拭き、褐色の肌の子が落としたスプーンを新しく替えてやり、赤毛の子のシチューのおかわりをよそい、一番小さな男の子の口元をぬぐってやり、届かないと文句を言う赤毛の子に三つ目のパンを回し、テーブルの逆側で始まった喧嘩を仲裁した。
 並べられた夕食はもちろん、その下に敷かれた見事な刺繍入りのテーブルクロスも、エメリンが作ったものだという。シチューはじゃがいもの柔らかさの具合といいにんじんの甘さがじんわり広がるところといい、文句なしの美味しさ。これは完璧なヒロインだ。美人で子どもに慕われて料理も裁縫も上手なんて、反則だ。かないっこない。
 こんなことでうまくやっていけるだろうかと不安になっている友梨に、ピーターがそっと声をかけてきた。
「大丈夫?」
 君はここで、と言われるままに座ったその席は、ピーターの隣だった。
「え、あ、はい。とってもおいしいです。このパンも」
「朝になったら焼きたてを食べられるからね。もっとおいしいよ」
 楽しみにしていて、とピーターは笑った。それだけで友梨はなんだか安心してしまった。
「なにかわからないことがあったら、遠慮なく聞いていいからね」
「はい、ありがとうございます」
 向かいの方にいるエメリンの視線が刺さるような気がしたが、気のせいということにした。
 ピーターは食事が終わってからも何くれとなく友梨の世話をやいた。たいてい側にいて、家の中のものについてあれこれと説明してくれるのだ。それはもちろんありがたかったが、友梨はいつもエメリンの目を意識せずにはいられなかった。
 歓迎されていないのがはっきりとわかる。比較的年上と思われる子どもたちは、「ママ」の意向を無意識に読み取ってか、友梨に近づいてはこなかった。先が思いやられる。
 歯磨きと後かたづけが終わると、子どもたちはみんな輪になってエメリンを取り囲んだ。
 ママ歌って、歌って、とせがまれるままに、エメリンは歌った。特等席みたいな木の揺り椅子に腰掛けて、本当のお母さんみたいに柔らかい声で。そしてその歌声にあわせて、ピーターが笛を吹いた。
 小さな音楽会が終わると、エメリンが手をふたつ叩いて「さあ、もうお休みの時間よ」と宣言した。子どもたちは素直に従う。きっといつものことなのだろう。
「あなたは――、なにも持ってなさそうね」
 エメリンは友梨を手招きして奥の部屋に入っていった。子ども部屋だ。ずらりと並んだ二段ベッドの下の引き出しを開けて、水玉模様の服を取り出す。
「少し丈があわないかもしれないけど、とりあえず今日はこれを着て寝てちょうだい。明日には直すわ」
 どうやらパジャマにしろということらしい。
「あ、どうも……。すみません」
 さすがに制服のまま寝るわけにはいかないだろうから、ありがたく受け取る。友梨は通学カバンひとつしか持っていないのだ。
 まわりでは着替えを済ませた子どもたちがそれぞれベッドにもぐり込もうとしていた。それも、小さい子は一段に二人ずつ。ベッドは四つしかないので、一人ずつ寝れば八人しか寝られない計算だから、仕方ないのだろう。落ちても大丈夫なようにとの配慮なのか、小さい子は下の段、比較的大きい子は上の段、となっているようだ。
「ユリはこの上を使ってちょうだい。シェイはミルトスと一緒に寝て」
 ええっ、と不満の声をあげたメガネの子は、シェイなのだろうか、ミルトスなのだろうか。友梨が顔と名前を一致させることのできる子どもはまだ、一番おねえさんなラウラと、女の子にいたずらして叱られていた赤毛のベイセル君だけしかいなかった。
「狭いって」
「場所が足りないんだから仕方ないでしょう、我慢しなさい」
「あの、ごめんなさい」
 申し訳なくなって口を挟むと、エメリンは振り返りもせずに言った。
「いいのよ。ピーターがあなたを仲間に入れるって決めたんだから」
 エメリンは子どもたち全員がベッドに入ったのを確認してから、毛布をかけたり頭を撫でてやったりした。最後に明かりを吹き消し、部屋を出て行く。エメリンの「おやすみ」という一言を最後に、誰も口をきかなかった。友梨もひとりで毛布をかぶった。とりあえず、明日はもう少し子どもの顔を判別できるようになろうと思いながら。
 夢の中でも眠れるものだろうかと思ったが、目を閉じて気がつくと子どもが騒いでいた。毛布をはいで起きあがるともう明るかった。あっという間だ。朝になったのだ。





           



2010.09.26 inserted by FC2 system