風の吹いてくる方になんとなく進んで、丘を登ったり降りたりしていると湖が見えてきた。陽の光に照らされた水面が輝いて、眩しいほどだ。
 湖畔では麦わら帽子の少年が釣りをしていた。その先には鳥に餌をやっている兄弟がいた。またしばらく行くと、茶色い肌の女の子がハンモックで寝ていた。胸の上に文庫本を載せながら。
 思わずあくびの出そうになるのどかさだ。
 夢の中なのに眠くなるというのもちょっと変な話だが、事実そうなのだから仕方ない。いっそ寝てみようか、と友梨は思った。なにせ手ぶらだ。本もなければ釣り竿もない――元々釣りの趣味はなかったが――、そのせいで散歩くらいしかすることがないのだ。柔らかい草の上で昼寝したら、きっと気持ちいいだろう。
 思い切ってごろりと横になった。目をつぶってゆっくりと呼吸すると、体の中にたまっていた疲れがじわりと抜けていくような気がした。
 あたしはどうしてこんなに疲れていたんだっけ?
 ふと不思議になる。だがすぐにどうでもよくなった。ここはとても美しく整った世界だ。行き会ったのはどれもこれも絵になる風景だった。幸福という題の付きそうな。みな思い思いに好きなことをして、楽しんでいた。
 そうだ、あたしならきっと絵を描くだろう。
 それをしないのは、カバンがないからだ。スケッチブックも絵の具もなにもかもあの中だ。惜しいことをした。
 絵のことを考えたら、じっとしていられなくなった。
 起きあがって草を払い、また歩き出す。
 まったく、もったいないくらいのいい景色だ。空と湖、澄み渡ったふたつの青。どれを混ぜればこんな青になるだろうか。どこから風景を切り取れば綺麗だろうか。
 考えながら水際を歩いて、そして木立と青が美しく混じり合う場所にたどりついた。湖の向こう側に連なる山の稜線もいい感じだ。思わず両手の指で四角の窓を作って覗いてみる。
「あー、ここでスケッチできたらなぁ」
 手を下ろして呟くと、草をかきわけるような音がした。振り返ってみると犬が一匹、ぱたぱたと長いしっぽを揺らしている。くわえているのは見慣れた紺の通学カバンだ。誕生日にもらったばかりのクマのマスコットがぶらさがっているところからして、それは間違いなく友梨のものだった。
「さすが夢……」
 なんて都合がいいんだろう。
 カバンを受け取って頭を撫でてやると、犬は友梨の周りをぐるっと回って、誇らしげにワンと鳴いた。
 気の利くことに、すぐ近くに木のベンチが置いてある。ここにベンチを置いた誰かは、ここからの眺めの美しいことを知っていたのだろうか。それとも、これも夢ならではのはからいなのだろうか。
 友梨はスケッチブックとペンケースを取り出して、ありがたくベンチに腰掛けた。
 風は相変わらず柔らかく吹いていて、草や木をさわさわと囁かせる。落ちかかる横髪を耳に引っかけて、友梨は鉛筆を動かした。気持ちが落ち着いていくのを感じる。こんなに穏やかな気持ちになるのは久しぶりだ。さすがは、安らぎの扉。
 しかし、なにもかもうまく運んだのはここまでだった。
 どうしても、絵が気に入らないのだ。
 書いては消し、書いては消しを繰り返し、諦めて二枚目に入り、一からやり直しても上手くいかない。
「ああー、やっぱりダメだ! なしなしっ」
 ごしごしと消しゴムをかけていると、すぐ耳元で男の声がした。
「消しちゃうの? もったいないな」
 友梨は悲鳴に似た声を上げて、スケッチブックを抱きしめた。
「ああ、ごめん。驚かせちゃったね」
 おそるおそる首を横向けて、友梨は二度驚いた。ここまでの出来事をすっかり忘れてしまうほどの衝撃だった。
 ゾンビやのっぺらぼうが立っていたわけではない。それはただの人間だった。ただし、見たこともないくらいに綺麗な。友梨より少し年上――高校生くらいだろうか。背が高くすらっとしていて、黒いスラックスに白いシャツを着ている。髪は明るいブロンドで、瞳の色は吸い込まれるような青だった。その青は、空より湖に近い。深くしんと静まりかえっているような。
 ベンチに手をついて笑っているその姿に、友梨は見とれた。映画の中でしか存在しないような美形が、目の前で動いていることが信じられなかった。
「こんにちは」
 挨拶されても、友梨はまだぼんやりしていた。返事をすることも忘れていた。
「ここに座ってもいい?」
「あ、ど、どうぞ」
 友梨は慌てて横にずれた。一気に口の中が乾いてカラカラになっていた。
「ありがとう」
 少年は軽く礼を言って隣に腰をおろした。胸元のペンダントが揺れて、日の光をきらりと反射させる。友梨はやっとのことで目を逸らした。今度は顔をあげられなかった。じっとしているだけなのに全力疾走の後のように心臓がばくばくいっていた。
「君は絵が好きなの?」
「いえ、これはその、見せるほどのものじゃ」
 汗までかいてきた。これじゃ挙動不審だ。どうしよう。
「そう? 巧いと思ったけど」
「え、あ、ありがとうございます……」
 横目でちらりと見ると、少年はじっと友梨を見ていて、ばっちり目が合ってしまった。急いでまたうつむいて、落ち着け、落ち着け、と心の中で繰り返す。
 この人、何しにここに来たんだろう。
「君はどうしてここにいるの?」
 考えていたのと同じようなことを逆に訊かれて、友梨は答えに詰まった。
「どうしてって、それは……」
 それは、ここにいてはいけないような気にさせられる言葉だった。
 あたしはどうしてここに来たんだっけ。なにをしに来たんだっけ。どうやって来たんだっけ。いつから、どこから来たんだっけ。
 5W1Hみたいな疑問がぐるぐる回る。
「疲れてたから、かな?」
 少年はにっこり笑って言った。
 そういえば、ここは安らぎの扉なんだった。この人は扉を選んだ理由を訊いていた?
 なんだ、それなら簡単だ。その通りだったから、友梨はうなずいた。同時に、扉をくぐったことさえ忘れかけていたことに驚く。そうだ、夢は直線的に続いていくとは限らないものなのだ。
「珍しいな、君くらいのお客さんは。いくつ?」
「あ、えっと十四歳です。中二です」
 これは通じているのだろうか。ふと思ったが、夢の中なのだからそんな細かいことは考えなくていいのだろう。そもそもこの相手はどう見ても外人さんなのに、聞こえてくるのは流暢な日本語だ。
「あの、あなたは? どうしてここにいるんですか?」
「僕ははじめからここにいるよ」
 通じているのかいないのか、微妙な答えだった。
 なんだか、翻訳がうまくいってないような気がする。それとも、おかしいのはあたしの方?
 友梨がその言葉の意味を考えている間に、少年は立ち上がって、水辺に数歩近づいた。
 いつの間にか日が傾きはじめている。湖は金茶色に染まって、友梨が絵を描き始めた時とはまた違う美しさで輝いていたが、今やそれは彼を引き立たせるための効果にしかすぎなくなっていた。この少年を絵の中に描いたとしたら、風景はたちまちただの背景と化し、彼が主題になるだろう。それだけの存在感があるのだ。背を向けていてさえそうだった。
 湖を眺める背中を、友梨は眺めていた。まばたきも惜しいような気持ちだった。
「うん、いい眺めだ」
 やがて振り向いた少年に、友梨は勢いよく立ち上がって答えた。
「そうなんです!」
 この場所を選んだことを褒めてもらえたようで、嬉しかったのだ。少年は笑った。ははっという感じの、肩を揺らす短い笑いだった。
「面白い子だね」
 目が合うと、なぜか立っていられないような気分になった。逃げ出したいような、いたたまれない感じ。靴が脱げそうな感じ。ダサい制服が、寝坊しかけて適当にセットしただけの髪型が、いやになる。
「いえ、あの、すみません……」
「どうしてあやまるの? いいことなのに」
「はあ」
 もう何を喋ってるんだかよくわからなかった。
 じっと見られると、自分の格好がますます欠点だらけに思えて、歯の根元の方がむずむずする。
「ねえ、君は――」
 言いかけて、少年は考えるように軽く首をかしげた。
「君の名前は?」
「えっ、あの、友梨です」
 友梨はしゃきんと気をつけをしながら答えた。そういえば、なんでまっすぐ立つことを気をつけって言うんだろうかなんて、どうでもいいことを思いながら。
「名倉友梨です」
「ユリ、か。ねえユリ、ここを気に入った?」
「え、はい。あの、とっても気持ちのいいところだと思います。それに、懐かしい感じがするっていうか……」
「そう。それはよかった」
 この人はいったいどういう人なんだろうか。友梨の中で疑問がふくれあがる。
 りん、りん、と音が聞こえた。どこかで鈴が鳴っている。近いような遠いような、不思議な場所から響いてくる。
 少年にもそれが聞こえたのか、視線が泳いだ。
「黙って話を聞いてくれるかな。少しの間でいいんだ」
「は、はい」
「実は僕は今、とても困っている」
 友梨は言われた通りに口をつぐんだまま、考えを巡らせた。言葉とは裏腹に、少年の表情はあまり困っているようには見えない。いったい、なんの話が始まるのだろう?
「どう言えばわかりやすいかな? 僕は、ある店のオーナーだ。ニーズの多様化のせいか営業不振になって、ちっとも貝が集まらない。それで思い切って新店舗をオープンした。しばらくはそれでうまくいってたんだけど、このところエネルギー不足で回収効率が悪いんだ。せっかくたくさんお客さんを呼べるようにしたのに、このままじゃ全部止まってしまう」
 すいませんわかりにくいです。どこからどこまでがたとえ話ですか? と、聞きたかったがぐっと我慢した。
「つまり、優秀な従業員を捜してるんだよ」
 少年はそこで話を止めた。
 友梨はといえば頭の中が疑問符だらけだった。それが結論ということは、もしかして勧誘されているのだろうか。赤字になっているのなら従業員は減らした方がいいのではないだろうか。貝というのがよくわからないが、何を売っているのだろうか。そして第一に、そろそろ話してもいいだろうか。
「あの……」
 そろそろと切り出すと、遮られなかったのでそのまま続ける。
「ここは、夢なんですよね?」
「そう、夢だよ」
 あっさりと、返答があった。
「ねえ、もう少しここにいたいと思わないかい」
 さっき青いと思っていた瞳の色が、今は緑に見えた。柔らかい声はまるで催眠術をかけられているみたいに響く。
「あたし、が、働くんですか? アルバイト?」
「残念ながら、お金は出せないんだ」
 彼はまた楽しそうに笑った。
「でもちゃんと泊まるところはあるよ。食事もつくし。パンは僕が焼くんだ」
 焼くというのは、トーストすることだろうか。それとも言葉通りに焼き上げるということだろうか。
「……仕事内容は?」
「この扉の世界のキャストになること。大丈夫、難しくないよ」
 これはどう考えても怪しい勧誘だ。あなたのために祈らせてくださいとかよりさらに怪しい気がする。友梨は思った。断るべきだ、と。
「だめかな。君とならうまくやっていけると思ったんだけど」
「いえ、やります!」
 残念そうな表情を見た途端、口が勝手に動いていた。
「本当? ありがとう。助かるよ」
 少年は細長い銀色の鍵を胸ポケットから取り出してくるりと回した。とたん、二人の前に扉があらわれた。色は白。入り口にあったのと同じように、たくさんの文字がずらりと並んでいる。
「さあ、どうぞ」
 とっさに読み取った一番大きな文字列は、STAFF・ONLY。
 軽く背中を押されて、友梨は開いたその中に足を踏み入れる。後ろでパタンと扉が閉まった。


 つられてしまった。早まった。
 そう思いながら、一方でまあいいか、と楽観している。なにか楽しいことが始まりそうだ、とわくわくもしている。
 実際のところ、まだこの夢をみていたいと思ったのだ。少年の言った通りに。
 ――もう少しここにいたいと思わない?
 そうだ、まだここにいたい。ヘンだけど、今のところは、いい夢だ。
 彼が一緒なのならいいかもしれない。このまま続いてもいいかもしれない。
「ここはちょっと散らかってるけど、気にしないで。こっちだよ」
 少年の背中から視線をはずすことができずに歩いていた友梨は、不意につんのめりそうになって慌てた。なんとか踏ん張って息を吐く。少年は気づいていない。
 床板が一枚、浮き上がっていてそこに引っかかったのだ。足元を確認し、それから改めて、友梨は部屋を見回した。
 薄暗い室内に、ごちゃごちゃと物が置かれている。倉庫というより、この雰囲気は舞台裏だ。段ボールにたてかけてあるフラフープ、巻かれたままの赤い布、木のはしご、おもちゃのトランペット、ガムテープ。
 ここが舞台裏だとすれば、あの扉の向こうはステージだったんだろうか。振り向くと通ってきたはずの扉はまた消えていた。
「どうかした?」
 着いてこなくなった友梨にようやく気づいたのか、少年が立ち止まって友梨を見ていた。
「あ、いえ。なにも……」
 少年はただ立っているだけだった。
 それなのにまだ光をまとっている。湖のほとりにいた時と同じに。
 まるで、もう舞台を降りたのに、彼にだけスポットライトが当たりつづけているような。
 ふと、友梨は気が付いた。
 そうだ、この人は「主役」なんだ。
 まばたき一つに魅入られるのも、指先一つの動きに誘われてしまうのも、彼の持つ引力のせいなのだ。
 友梨はそう理解した。少年がまた扉を開けた。世界は揺らめき、さらに広がっていく。
「ああ、そういえば自己紹介がまだだったね」
 心の中で、思い出していたものがあった。子どもの頃、好きだった物語。お姫様や王子様が出てくるものではなく、子どものための冒険の物語。繰り返しめくった絵本を。
「僕はピーター」
 友梨の心をそのまま映して、彼は名乗った。
 それはあまりにも耳慣れた平凡すぎる名前だった。英語の教科書にだって出てくる――確か、マイクの友だちだ。
 けれど彼はそんな脇役じゃない。
 だから、
「ようこそ。夢を渡り歩く島、ネバー・ネバー・ランドへ」
 彼はピーター・パンだ。





           



2010.09.24 inserted by FC2 system