「名倉のこと好きなんだ」
「困る」
名倉友梨の口からとっさに出てきたのは、そんな言葉だった。
ありふれたシチュエーションだ。放課後の教室に二人きり。突然呼び出されて受けた、ストレートな告白。だが友梨にとっては青天の霹靂だった。相手の男子生徒は、クラスメイトの朝川だ。朝川――朝川――確か、カズユキだ。混乱しながらも記憶をたどって引っ張り出したフルネームだったが、漢字までは思い出せない。
朝川カズユキは、友梨にとってその程度の存在だった。運動部で――サッカーだっただろうか? こんがりと日に焼けているから、バレーや卓球ではないだろう――成績もそれほど悪くなく、クラスでは一番にぎやかなグループに属している明るいお調子者。女子からはそれなりに人気があるらしかったが、あいにくと友梨には朝川がいつも真似をしているお笑いの元ネタがわからない。友梨の部活は美術部で、テレビで見るのはバラエティーやクイズ番組ではなく、もっぱらドラマとドキュメンタリー。要するに趣味が違いすぎるのだ。
だから思う。なんであたし? いつも周りにいるあの子たちじゃなくて?
もちろん、嬉しい気持ちも少しはある。告白なんて受けたのは生まれて初めてだ。だけど困る。予想外すぎて困る。なんの気持ちの準備もしていなくて、どう断っていいかすらわからない。
風を入れるため開けっぱなしにされた窓の外では、セミたちが合唱していた。まるで耳鳴りのようだ、と友梨は思った。うるさくて、考えがまとめられない。
「だってあたし……、あんまり話したことないし。そういうの、考えたことないから」
なんとか絞り出した言葉は少しかすれた。気まずくて顔があげられない。
途切れることなく同じだけのボリュームで、セミたちは鳴り続けている。強い日差しが教室を斜めに照らし、整然と並べられたいくつもの椅子の影が床に複雑な模様を描き出していた。
「や、もちろん、すぐ返事してほしいとかじゃなくて。俺待つし。いきなりでビックリしただろ、ごめん」
謝られて、友梨は思わず朝川を見た。朝川はかすかに紅潮した頬を引き締め、緊張のためか口をへの字に曲げていた。教室で騒いでいる時には見せたことのない真面目な表情だった。
友梨はどきりとして、また下を向いた。朝川がモテるのもわかる気がした。それと意識して見ると、確かに整った顔立ちをしているのだ。
悪くはない話かも、と心が揺れる。もう中二なんだから、彼氏の一人や二人、できたってかまわない。というより、できたらいいなと思っていた。もっとも友梨の好みはどちらかといえば優等生タイプの、たとえば生徒会役員の向山先輩のような人なのだったが、残念なことに先輩とは挨拶しかしたことがない。つまり、まったく望みはない。いいかもしれない。少しくらい、付き合ってみるのも。
「俺同じクラスになってからずっと、どうやって話しかけようか迷ってて、けど結局あんま話せてないよな。名倉の言う通りだ。だからさ、すぐ付き合うとかそういうんじゃなく、友だちになれないかな。ほらもうすぐ夏休みだから、みんなで遊びに行く時とか、誘うし」
たぶん朝川は気をつかってくれたのだ。だがそれが突然、友梨の心にブレーキをかけた。朝川の友人は男女を問わず、みんな流行に敏感で、なにごとにも積極的なタイプだ。あの輪の中には入れない。友梨がどんなに念を入れてお洒落をし、お気に入りの服を選んでいっても、きっと浮いてしまう。遊びに行くというのは、ゲーセンだろうか、カラオケだろうか、それともボウリング? 友梨にはなじみがない。うまく話を合わせられず、失敗してしまうだろう。朝川がフォローをしてくれることが、余計にねたみとからかいの種となり、笑われ、こっそりとバカにされる――そんな光景が妙にリアルに胸に迫った。
「……いや。あたし行かない」
湿った空気の中に混じるのは、チョークと汗のにおいだ。息苦しくなる。
「なんで? きっと楽しい――」
「合わないと思う。ごめんなさい。あたし、もう部活行くね」
頭を下げて、机の横にあるフックにかけられたカバンをはずす。学校指定の、紺色のショルダーバッグだ。それを肩にかけて、友梨は足早に教室を出た。目指すのは三階の美術室だ。
誰にも見られたり、聞かれたりしていないだろうか。変に噂されるのはいやだ。
すれ違う生徒たちを気にしながら階段にさしかかると、背後から名前を呼ばれた。
「待てって、名倉」
朝川だ。振り向かなくともわかる。顔が赤くなるのを感じながら階段を駆けのぼった。
もうやめてほしい。目立つのに。どうして追いかけてくるの――
「なあ、これ、おまえのだろ!」
「え」
振り返ると、朝川の手に見慣れたチョコレート色のペンケースがあった。
それを認識すると同時に、どんと誰かにぶつかられた――気がした。足元がふらついて、体がバランスを崩す。落ちる、と思って目を瞑り、体を硬くする。
「名倉!」
世界が反転した。
あたしのペンケース、そういえば机に置きっぱなしだったっけ。
友梨はぼんやりと考えた。
セミの合唱。全開の窓にもかかわらず、そよとも揺らがないベージュのカーテン。期末テスト明けの開放的な空気。大会の迫った運動部のかけ声。ブラスバンドのチューニング。全部が近づいて遠ざかって、そして歪んでいく。まるでマーブリングのように、混ざって、波を描いて。
ああ、頭が痛い。
変な風にぶつけただろうか。友梨はゆっくりと目を開け、幾度か瞬きをした。視界がぼやけているような気がしたからだ。白いものが映るばかりで、あるはずのものがない。
しんと静まりかえった中に、りん、りん、と鈴の鳴るような音が渡っていく。
鈴虫が鳴くにはちょっと早いんじゃないの? 友梨の心に疑念が広がる。そうだ、さっきまでセミが鳴いていたはずなのに、聞こえない。
そこまで考えて、はっきりと異変を認識した。両手をつき、起きあがる。
「……なに? ここ」
自然にこぼれ落ちた呟きは、まるで風呂場のようにこもって響いた。耳がおかしくなったのだろうか、それとも目の方が。眼前に広がるのはシンメトリーの構図。半円状のアーチのその向こうに、五つの色違いの扉。
明らかに、学校ではない。病院でもない。
友梨が連想したのは美術館だった。けれどその可能性もすぐに打ち消された。
見上げると天井がなかった。いや、正確には、ないのは空の方だ。どこまで続くのか判らない、距離感のつかめない白が広がっている。描きかけのカンバスの中に放り込まれたような違和感が沸き起こり、友梨は首を振った。
立ち上がろうと手をついて、今度は床に視線がいった。これも真っ白い床だ。なんの筋も入っていない、ぺたっとした塗りつぶしの白。けれど友梨のいる周辺にだけ、青い模様が描かれている。立って見下ろすと、それはちょうど巨大な分度器のように半円に広がっていた。
なにかの絵、いや、文字だ。中心付近をのぞいて半円状にびっしりと、何行にもわたって書かれている。
アルファベット、一筆書きのように繋がる波に似たなにか、ハングル、まったく解読不能のなにか、音符のような文字、またアルファベット――のようであるが違うものも混ざったなにか、角張った漢字、うねうね、記号のような文字、くるくると続くマルだらけのなにか、そして平仮名。
「よ、う、こ、そ。ようこそ?」
よくよく見ると、一番大きな文字はWELCOMEとある。どうやら全部同じ意味らしい。見上げたアーチもまた、文字だらけ。五つの扉も、よく見るとなにか書かれているようだ。
後ろから走ってきた二人の子どもが鮮やかな青い扉の向こうに消えた。
あたしも行かなきゃ。
友梨はなぜかそんな気になって、一歩を踏み出した。
道を選ばなければいけない。いや、そんな義務のようなものではなくて、ただここはスタート地点なのだと「わかって」きたのだ。
扉には、床と同じように様々な文字による説明がなされていた。近づいて、それぞれから日本語を探して読み取る。
右から、セルリアンブルーの「ぼうけんのとびら」。
チャコールグレイは「ひみつのとびら」。
真ん中のコーラルレッド「ときめきのとびら」。
レモンイエロー「ふしぎのとびら」。
そしてエメラルドグリーンが「やすらぎのとびら」。
たいして迷うこともなかった。なぜといって、友梨は疲れていたのだ。
冒険も秘密もいらない。ときめきはもうたくさん。不思議ってなんだ。効果のほどを試してやろうというくらいの気持ちで安らぎの扉を開けた。
そして世界は広がった。
ちゃちなテーマパークのようだった入り口と違って、中はたいしたものだった。さんさんと降り注ぐ日光の下、緑の波が広がっている。それは薄い煙に包まれているようで、よく見れば小さな白い花が無数に混じっているのだとわかった。中にはピンクや黄色の花も一緒になって揺れている。
肩に何かが触れ、空を仰ぐと、きらきらと光るものが舞い落ちていた。虹色のシャボン玉だ。友梨の訪れを歓迎するかのように、あとからあとから降り注いでくる。
振り返ると、扉は消えていた。友梨は春の野の真ん中に立っていた。
「帰り道、は……?」
まあいいか。
帰りたくなったら、目覚めれば済むことだ。そう結論づけて、友梨はぶらぶらと歩き出した。
そう、こんなでたらめな世界、夢でなければありえないではないか。
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