そう、おかしいと思ってはいたのだ。
ロージャーは確かにサリーを特別扱いにしていた。だがそれは恋愛感情からではないようだった。
あのメイドには秘密がある。
ロージャーはそれを知っていて、だから彼女をかばうのだ。
役立たずのメイドは仮の姿、しかしてその正体は――アクラ家の派遣したエージェント。特殊な訓練を受けたスパイとか、ミルファ嬢の影武者とか、戦闘のプロとか。
「我ながらホントにありえないな。誰にも言わなくてよかった」
カークはぽつりと呟いた。
「ありえない」
なにかを否定するように、強く。
もやもやした気分が晴れそうにない。
騙されていたような気がするからか。いや、事情があったのはわかっている。別に彼女に落ち度があったわけじゃない。
カークはやるかたない気分と一緒に足元の石を蹴飛ばした。
「あっ、カークさん!」
手を振りながら、いつものようにサリーが駆けてくる。
いや、違う。サリーではない。召使いのサリーなど、いない。
「あら、フィルさんはどちらに?」
近くまで来て、サラは首をかしげた。
「あの子なら金貨を回収しに行きましたよ」
ああ、と彼女は南の方に視線を向ける。その目はわずかに充血していたが、表情は晴れやかだった。
「ミルファ様はご無事でした。今お食事をされていて。少し痩せていらっしゃいますけど、お元気ですよ。もう安心してしまいました。それで、アデラさんが私たちの分も食事を用意してくださるそうなんです、呼びに来たんですよ」
興奮気味に語るその様子も、見たことがないほど嬉しそうで、思わずつられて笑顔になってしまいそうだった。
「……それは、よかったです。宜しゅう御座いました」
けれど、それはもういけない。
「は?」
「殿下、これまでの非礼をお許しください」
本当は笑い飛ばして欲しかった。
おかしなものでも食べたんですか、とか。なんのお芝居なんですか、とか。
サラは目を真ん丸にして、それから落ち着きをなくしてきょろきょろと辺りを見回した。
「え。あの、あの、どうしてわかってしまったのでしょう?」
「……フィルが聞いておりました。ミルファ嬢があなたを呼ぶのも、あなたがミルファ嬢を親しく呼びすてたことも、その後の会話も」
「ああ……」
この分ではまったく気づいていなかったのだろう。ミルファ嬢が見つかったことに舞い上がって、周りが見えなくなっていたに違いない。
まったく、素直な人だ。
「あのう、このことは内密に。誰にも言わないでください。いろいろと問題になってしまいますので……」
叱られた子どものように身をすくめて、サラはカークを上目遣いに見た。
「別に言いふらしたりはいたしません。ですがせめて、事情を知っていたロージャーが島に呼びつけられた時点で、ご身分を明かしてくださるべきでした。……私でも、最低限あなたの安全に気を配ることくらいはできます」
ロージャーの名を出すと、サラはいっそう身を縮めた。わずかに頬を染めて。
「あの方もそう勧めてくださいました。でも……」
軽く俯き、それから思い切ったようにもう一度顔を上げる。
「恥ずかしかったんです。カークさんにはみっともないところをたくさん見られてしまって。こんな私が王女だなんて、言えるはずありません」
カークは奥歯を噛みしめた。
何を馬鹿なことを。
言いたいことは山ほどあった。軽蔑するとでも思ったのか。今更じゃないか。メイドだろうが王女だろうが、あんたはあんたで何も変わらないのに。あったことは、生まれたものは、無くせないのに。
いくつもの衝動を噛みつぶして、息を吸って、止めて、吐いて、やっとのことで言った。
「石鹸を丸ごと溶かすのは、王女じゃなくても恥ずかしい」
「うっ」
サラは顔を真っ赤にした。それだけで少し、すっとした。
「いつまでお芝居をなさるんですか? 殿下」
「ええとあの、城に戻るまでは……」
「了解いたしました」
カークは荷台に足をかけ、トランクを引っぱり出した。
「じゃ、とりあえず荷物を中に運んでしまいましょう」
「あ、あの、手伝います」
「無理でしょ」
「うう」
「……冗談です。軽いものだけお願いしますよ、先生」
「は、はい!」
笑ってはみたが、胸の奥はひたすら苦かった。
いいコネができた、と喜ぶべきだったのかもしれないが、思いつきもしなかった。
ミルファはこの四ヶ月間のことを、まるで憶えていないという。
でもやっぱり、夜に囚われていたに違いない、とサラは主張した。まあそうなんじゃないか、と周りもなんとなく納得してしまった。それは変わってしまった髪の色のせいでもあった。
血で染め抜いたように真っ赤になった髪――それはちょうど夜が来る寸前の空のような不吉な色だ。
ミルファはそのことを気味悪がるでもなく、なんでかしらねと自分で首をかしげていた。
トカゲが手紙を見て帰してくれたのかも、だとしたら金貨は置いていかなければいけないとサラは言い、義理も必要もないのに大金を茂みに置いていこうとした。カークの心情としては反対だった。どう考えてももったいない。人質が無事なのに身代金を払うなんて。
けれどミルファまでもが「まあいいんじゃない」というような態度だったので、止めようがなかった。鍵を外された五つのトランクは茂みに放置された。ありがとうというメモと一緒に。金持ちの感覚というやつは常人とはかけ離れている。カークはしみじみと再認識した。
かけ離れているといえばミルファの人柄もカークの想像とはまったく異なっていた。サラが違和感なく接しているので、元々こういう感じなのだろうが、気取ったところがなく実にさっぱりしているのだ。
しかしカニンガム将軍と対面した際には、ミルファは深窓の令嬢という形容のしっくりくるおとなしやかな貴族の娘へと変貌していた。カークはひきつったまま同意を求めてフィルと視線を交わし、うなずきあった。なんということだろう。女は魔物だ。
かくして一行はサリアンの騎士達に囲まれ、警戒するように街道に配備されたソレノア軍に見守られながらサリアンへと向かったのだった。
問題は山積していたが、ソレノアとの関係回復などは後々外交官がやればよいことだ。ミルファ嬢救出に協力したとして、獣人居住区の管理官や辺境の天測師たちにはアクラ家から充分な謝礼が贈られることにもなっている。ともあれ令嬢は無事だったのだ。このピリピリした空気もそのうちなんとかなるだろう――というか、自分には関係ない。
そう割り切ってみたものの、人々の奇異の視線を集めるミルファ嬢の隣に、傍付きのメイドとして王女が控えていることを知っていたカークは、キスカ大橋を渡りきるまで気が気ではなかった。
アクラ家の本邸で別れる時、王女はこっそりとこう言った。
「文官の採用試験のことですけど、今からでも一次を受けられないかどうか、私、担当の方にお願いしてみます。それくらいしかできませんけど……」
実にありがたい申し出だったが、カークは首を横に振った。こんな風に親しく口をきけるのもこれが最後だろう、と思いながら。
「いいですよ。来年また受けます。今度こそ、受かります。助手の仕事もなくなって、勉強に集中できそうですから」
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