数ヶ月ぶりの太陽の光は、ひどく目に染みた。
 とても目を開けていられなかった。頭痛がした。まぶしくて辛い、というのはこういう感じだったのかと、ピピのことを思い出しながら涙をぬぐった。
 レヌカたちはミルファの目が慣れるまで待ったりはせず、集落の方向だけを教えてすぐに立ち去ってしまった。それは仕方のないことだった。ここで黄昏の民たちが目撃されたのでは何にもならない。
 ミルファはひとり、両手で目をおさえながら、しばらくじっとしていた。
 やがて世界に色が戻りはじめた。はじめに手のひら。木々の緑、黄緑、青緑、深緑。石ころ、土、地を這う虫。空を行く鳥。
 そう、こんなにもたくさんの色が、世界にはあったのだ。
「かえってきた……」
 歓喜に震える声で、ミルファは自らに囁いた。
「かえってきたわ、あたし」
 日差しを仰いでへたりこむ。空の色は銀杏のような黄色だった。
 土の上にドレスで座ることに、抵抗はまったくなかった。だってもうとっくに汚れている。こんな乾いた土がなんだというのだ。手で払えば済むことだ。
 そんなことより地面があたたかい。
 ゆっくりと手のひらで撫でる。とてもいい香りがしていた。緑と土の匂いだ。
「サリアンでは、見ない木ばっかりだけど……」
 それに少しぼやけていた。輪郭が潰れてよく見えない。
 それでもその風景を、ミルファは気に入った。
 ここは一体どこなのだろう。ソレノアの辺境だとは聞いているが。
「とにかく人に会って、今しがた誕生パーティからはじき出されたような顔で……家に帰りたいですって言えばいいのよね。うん」
 まだ視界がチカチカする。
 薄目を開けながら、ミルファはふらふらと歩き出した。
 太陽の方へ。北へ。


 ソレノアからサリアンへの馬車旅で、ミルファの視力はほとんど回復していた。
 元々こんな長旅をしたことがなかったミルファは、行列のものものしさなど気にもとめず、同乗していたサラと話をしながら景色を堪能した。時々、うっかり「こんなことがあって」と喋りそうになっては別の話題を探す必要があったが。
 たとえ相手が信用のおけるサラであっても、ミルファは決して夜のことは語らなかった。どちらにしろ奇想天外な話だ。弱気で優しい生き残りの魔族、恩返しをしてくれた小さなトカゲ、口うるさいカエル。昼とはまったく違う魔力のありかた、燃えていた青い魔力の炎、空いっぱいに広がるささやかで美しい光、昼と夜を行き来する不思議な獣人たち。
 そのすべてを、生涯口にしないと決めていた。それが約束だから。
 そのすべてを、生涯忘れないと決めていた。自分だけの宝物だから。


 戻ってすぐは慌ただしかった。まずは本邸で家族と再会を果たしたものの――これはサラがそこで静養していることになっていたためでもある――、すぐに王都に移動することになった。国王に面会したり、祖父にこってりしぼられているサラを助けに行ったり、宮廷魔術師に取り囲まれて色々調べられたりした。宮廷魔術師といえば、ロージャー・ロアリングは賢者の島に呼び出されて戻っていないらしい。サラが心配していた。
 ともあれ目まぐるしい日々が終わると、ミルファはそのまま王都の別邸で静養の日々を過ごすことになった。足腰がすっかり萎えていて、動き回るとすぐに疲れるのだ。元来のミルファはとにかく健康で、風邪もろくにひかないような娘だったから、周りも心配して大人しくしていることを勧めた。
 美しかった金の髪は、洗っても洗っても、戻らなかった。
 染めたらどうかと言われたが、ミルファは首を振った。
「……まぁ、このままでいいわ」
 美しく装うことにはこだわっていたミルファがそんな風に答えたので、周囲は心底驚いたような顔をしていた。
 ただでさえ赤は不吉な色なのに、普通の赤毛とはまったく違う、深く鮮やかな色合いの燃えるような赤なのだ。
 おかげで見舞客と顔を合わせるたび、奇妙な物を見るような目をされる。
 確かに、いい気はしない。それでも、あそこにいて染め変わってしまったこの赤が、ミルファにはたった一つ持ち帰れたもののように思えた。
 だから、手放したくなかったのだ。


 ひとりで部屋にいると、静かな中でまどろんでいると、ふとリオがそこにいるような気がする。
 ミルファ、ごはんできたよ。冷めちゃうよ。起きて。
 ミルファ、この前の続きを教えてよ。
 あれ、起きた? もうちょっと寝ててもよかったのに。ちょっと話したいことがあっただけだからさ。
 まぶたをあげると、すぐに夢から覚める。
 ずいぶん長いこと暗い穴の底で過ごしたから、まだあそこにいるような気がしているのだ。
 慣れ親しんだ場所に帰ってきたのに、感覚が追いつかない。
 部屋の扉がそっとノックされた。ミルファは返事をして、ベッドからおりた。のろのろと上着を羽織る。
 そろそろ就寝の時間なのに。
「お母様?」
「いや、僕だよ」
 ミルファは即座に駆け寄って扉を開けた。
「まあ、お兄様! どうなさったの?」
 ミルファの笑顔は、すぐに引っ込んだ。来訪者は二人いた。
「……と、ジェイニーさん」
「遅くにごめんなさいね、ミルファ」
 兄嫁を前にすると、未だに身構えてしまう。それはもう身にこびりついた習性のようになっていた。
 本当は、このままではいけないと思っていた。彼女に対する悪感情はすでに薄れている。毛嫌いしていた以前ほどには、憎めなくなっている。
 だからここは、ちゃんと妹としての立場をわきまえて、態度を軟化させるべきだ――とは思っているのだが。
「いえ、別に」
 口をついて出たのはそんな素っ気ない返事だった。
 セイルが困ったような顔をする。半年前なら、それを見て余計に腹が立っていたはずだ。けれど今は、胸がちくりと痛んだ。
 ミルファは自分の態度をごまかすために、早口で喋った。
「どうなさったの、お二人で珍しい。あ、立ち話もなんだから中にお入りになったら?」
「あ、いやいいよ。すぐに済むから。もう寝るところだろう」
「別にかまいませんのに……」
 自分のことでいっぱいだったミルファは、兄がとても緊張した様子でいることに、そこでようやく気づいた。
「ちょっと、大事な話があってね」
「なんですの? 改まって」
 ミルファは胸で心当たりをさぐったが、なにも出てこなかった。
「実は……」
 言いよどんでいる兄の横で、ジェイニーが心配そうにその顔色をうかがっている。
 一体、なんだというのだ。
「その、ミルファ。落ち着いて聞いて欲しいんだが」
「落ち着いていますわよ?」
「ああ、うん。そうだ」
「変なお兄様」
 ミルファが笑うと、セイルは黙ってしまった。代わりにジェイニーが口を開いた。
「あのね、ミルファ」
「いやいいよ。僕が言う」
「でも」
「どっちでもいいですから、あまりじらさないでくださいな」
 ミルファは肩をすくめた。
「ああ、ごめん」
 セイルは一つ咳払いをして、こころもちジェイニーの傍に寄って言った。
「実は、子どもが生まれるんだ」
「はあ」
 セイルは非常にまじめくさった顔をしていたが、ミルファは気の抜けた返答をした。
「つまりその、僕たちの……」
 そのまま夫婦揃って深刻そうに黙っているので、ミルファとしては場を持たせるために発言するしかなかったが、うまい台詞を引っ張り出すには時間が足りなかった。
「ええと。おめでとう?」
 セイルは意表を突かれたようにまばたきした。
 ああ、やっぱり外したかも、とミルファは後悔した。だが予測していなかった議題だったので、とっさに反応できなかったのだ。そもそも、なぜわざわざ自分に言いに来るのだ。家族揃っているところで切り出されるべき話ではないか? それとも、もうだいぶ前にわかっていて自分だけ知らされていなかったのか。
 ミルファはジェイニーの腹部に目をやったが、いつもどおり痩せていた。今はミルファも人の事は言えない程度に肉が落ちていたが――というより。
「それじゃ、お姉様、もっとお食べにならないと」
 気がついて、ミルファはジェイニーに話しかけていた。
「小食なのはわかってますけど栄養が大事ですもの。あ、でももう気持ち悪かったりするのかしら?」
「いえ……」
 首を振って、それからジェイニーはふわりと笑った。
「わたしは大丈夫です。ありがとう、ミルファ」
 あ、とミルファは思った。
 どさくさでうまくいった。妹らしくできた。
 兄の方を見ると、まだ少しぽかんとしている。そうか。怒るかもしれないと思われていたわけか。気を遣わせてしまったのだ。
「お兄様、よかったですわね」
「うん……。ありがとう」
 じわじわと、セイルは笑顔になった。
 どうやら安心させることができた。これでよかったのだ。ミルファは明るく喋った。
「お兄様ったら深刻な顔で、なにか困ったことでも起きたのかといらない心配をしてしまいましたわ。ね、男の子だったらいいですわね。跡継ぎができますもの。お祖父様も大喜びよ」
 勢いがつくと、言うべき台詞は次々に見つかった。
「でもあたしは女の子がいいわ。すてきなアクセサリーをたくさん見立ててあげるの。どちらにしても楽しみね」
「ミルファ」
 気がつくと、ミルファは兄の腕の中にいた。
「よかった。ミルファが戻ってきてくれて。無事でいてくれて、本当によかった」
 子どもの頃のように、抱きしめてくれた。
「……どうしたの、いまさら」
 再会したときは、からっとしたものだった。たくさん人がいたし、母が一番に抱きしめてくれて、ずっと泣いていて、それをなだめるのに必死で。
「おかえり、ミルファ」
 思わず、涙がこぼれそうになるのをこらえる。
 今はそういう場面ではない。
 笑おう。
「……ただいま」
 兄をぎゅっと抱きかえして、そっと離れる。
「さ、もうそろそろ寝かせてくださいな。お姉様、お体を大事になさってね。おやすみなさい」
 ジェイニーのことをそう呼ぶのははじめてだった。自然にできただろうか。
 彼女は一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、笑顔をかえしてくれた。
「おやすみなさい、ミルファ」


 扉を閉めて、ようやく、ミルファは顔をくしゃくしゃにした。
 わかっていたことだ。とっくに割り切ったことだ。
 けれど胸にあるのは、いいようのない寂しさだった。
 ひとり、ベッドに転がった。古びたタンスなんかじゃない、ふかふかで肩なんか凝らない、特上のベッド。懐かしい香り。
 吸い込んで、泣いた。今頃になって、こんなに泣けるなんて思わなかった。自分でも不思議だった。だんだん可笑しくなってきてしまうほどに。
 ずいぶんかかったが、涙が止まった頃にはすっきりしていた。
 ミルファは顔を上げ、天井のガラス越しに太陽を見た。
 明日もまた、笑えるだろう。




           



2011.07.31 inserted by FC2 system