ミルファにとって、サラはたった一人の女友だちだ。同年代の他の女の子はみんな、ミルファを見ると嫌な顔をする。嫉妬だ、とミルファは知っていた。家の財力と地位と、そして生まれもった顔の造形。それが秀でているというだけで、ミルファは彼女たちとは違う生き物のように扱われる。どれもこれも、ミルファが選んだものではないのに。
サラは王女だから、少なくとも家柄とかそういうことを気にせずに接してくれる。本当は身分が下のミルファの方が立場を考えなければいけないのだが、従姉妹ということもあって周囲からは目こぼしされていた。
対等に、気軽に、思っていることをそのまま話せるのはサラしかいない。
家族にも悩みを相談することはあるが、恋の話を打ち明けるのはサラにだけだ。サラは口が堅いし、古今東西の恋物語から得られた知識は参考になるし――ミルファは本を読むのは苦手だった――、なによりいつも親身になって聞いてくれた。
だからサラが恋をしていると知って、役に立ちたかったのに。やっと力になれると思ったのに。
ミルファはいらいらしながら廊下を歩いた。期待していたパーティも、つまらない男だらけで戻る気になれない。
いや、大丈夫だ。ケンカするなんて久しぶりだったけれど、昔はたくさんしたではないか。
今回も、すぐにごめんなさいねと言って笑ってくれるに違いない。
――本当にそうだろうか?
記憶をさぐっていてミルファは愕然とした。一度だって、自分の方から謝ったことはない。どうしよう。謝った方がいいのだろうか。でも、どうやって?
ひとり立ちすくんだところで、最高につまらない男と行き合ってしまった。
赤茶の髪はぼさぼさ、服はいいものなのに袖がまくられ、シミがついて、台無しになっている。もちろん、パーティに出る服装なんかではない。
ロージャー・ロアリング。諸悪の根源だ。
「あなたね……」
つのりかけた文句をぐっと飲み込んで、ミルファは微笑んだ。
「まあロージャー様、まだこんなところにいらっしゃったんですの? パーティはもう始まっていましてよ」
「ああ、ミルファ殿! さがしものをしているんです。実は……」
もちろん、ミルファは約束を破ったロージャーのことを遠回しに責めたのだ。それなのに、ロージャーは気づいていない。謝るどころか、自分の話をはじめた。
こいつのせいでサラとケンカになってしまったというのに。
「さがしもの、ですって?」
「ええそうなんです。いつの間にか研究室から逃げ出してしまって。大変な」
「もういいですから」
上品を装いつづけるのに非常な努力を要した。大きくなりそうになる声を、腹に力を入れることで懸命に抑えながらミルファは言い捨てた。
「いくらでもなさってください。あなたと踊るなんてつまらないもの」
困惑したような声を無視して、ロージャーの来た方向へ、ミルファはずんずんと進んだ。ドレスは走れないから厄介だ。大股に、裾を蹴りながら歩くのが、つまづかないコツだった。
もういいんだ。あんな男じゃ、どうせサラには釣り合わないもの。もっと素敵な人をあたしが探してあげる。
頭に血がのぼっていたミルファは気づかなかった。けれど、パーティ会場ではそろそろ異変に気づく人が出はじめた。一人が声をあげて天井を指さすと、次々に悲鳴が上がった。
空が紅く染まっていた。
血の色の空は「夜」の前兆だと誰もが知っていた。警備の兵たちが慌てて動き出す。
「天測師はなにをしていた!」
「賓客を発光室へ避難させろ。すぐにだ」
「皆さん、落ち着いて! この広間には月光灯の用意があります!」
混乱を極める会場のざわめきも、ミルファには届かなかった。
時折、夜は波となって昼を襲う。
昼界の中心にある「賢者の島」、その直上にある太陽。光の力に圧されて、夜は昼を遠く取り囲んでいる――というのは、前に話した通りだ。
サリアンは賢者の島を中心とした円の半径の、ちょうど真ん中あたりに位置している。島から見て、方角で言えば南。島を取り囲む「海」にも、円の外にある「夜」にも接していない。
夜に接している国では、だいたい年に数回の割合で、夜の波が来ることがある。空の色を観測する「天測師」がそれを予報する。人々はそれを聞くと即座に家畜を繋ぎ、地下に作ったシェルターである「発光室」に避難して夜が去るのを待つんだ。
サリアンは夜界から離れているから、滅多に夜は来ない。
来るとしても、南からじりじりと空が赤焼けてくるから予測は容易だ。それなのに、この時は違った。よりにもよって国賓を招いた大事な会を行う日だ。念入りに観測しなかったはずはないのに。
ふとミルファは足を止めた。周囲が急速に薄暗くなっていく。見上げた空は、紅を通り越して深い藍色になっていた。
「うそ」
何が起こっているのかは、ミルファもすぐに理解した。夜が迫っている――
今頃になって非常事態を報せる鐘の音が鳴りだした。
ミルファにだって夜の経験はある。王都の屋敷で一度、本邸で二度。半日前から支度して、発光室に籠もって、家族や召使いたちと一緒になってカードをしたりビスケットをかじったり、それはちょっと怖いけれどどこかわくわくする「非日常」だった。
夜の闇にさらわれると、心を魔物に食べられてしまうんだよ。
兄はそう言って幼いミルファをおどしたものだ。眠りそうになるミルファの頬をひっぱって、ずっと傍にいてくれた。
だが今はそんなくすぐったい思い出にひたっている場合ではない。こんなに光がなくなるまで発光室に入っていないなんて初めてのことだ。幼い頃から何度も通ったことのある王宮の廊下が、薄闇の中では知らない場所のように感じられた。
「発光室――」
王宮の発光室。入ったことはある。サラと一緒に探検していて、忍び込んで、怒られた。大勢の召使いを収容できるように、とびきり広い部屋だった。ちゃんと憶えている。
けれど視界を奪われていく中で、そこにたどり着けるかどうか。
心臓がどきどきと騒ぎだす。壁に手をつきながら進む。まだ見えていて。これ以上暗くならないで。
体が冷えてくるのに、汗をかきだした。
警鐘がふつりと途切れた。鐘係も発光室に駆け込んだだろうか。まだ残っているのは自分だけなのだろうか。
不安におののくミルファの眼前に、小さな炎がよぎった。
彼女はそれを月光灯の火であると信じた。誰かがいる。その炎以外には、もうなにも見えなかった。
「待って、あたしも一緒に……」
もつれる足で駆けようとした。炎に近づいたと思った、その瞬間、足元の床がなくなった。
前 次
戻
|