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 大賢者府の書庫には、幻と思われていた書物や、ロージャーもその存在すら知らなかった資料が山と詰まれていた。それらは禁書とされ、外へは持ち出せぬ決まりになっていた。
 ロージャーはもちろん、大賢者府へ召喚されて以来、暇さえあればこれらを読みあさってきた。

 ――あたかも魔王、身を二つに分けたかの如し

 魔王の長子について当時の資料はこう語っている。闇の国の奥深くで指示する王と、前線でその軍勢を指揮する王子。ツァズセースは作戦中に王から策を授けられることも指示を求めることもしなかった。その必要がなかったのだ。
 世継ぎであり、地位はナンバー2だが、ツァズセースの命令は王の命令と同じだけの重さをもつとされていた。普通はそんな危険なことはしない。少なくとも昼界の常識では。
 王子がのっとりを企んだらどうするのか。意見が衝突すればどうなるか。すべて考慮されなかった。それは、この王子が魔王の分身であるからだ――というのが、資料を編纂した人間の考察だった。
 繊弱な若い男の姿からは想像も出来ないほど強い魔力を持つ、魔王軍の統率者は、左目を魔王から与えられていたという。自らの体の一部から分身を作り出す、というのは魔族の間ではしばしば行われた呪法のようだ。
 魔王には、もう一つ自由に動かせる体があった。それが、レグザスズ・ツァズセース=タヅァス・ルダ。世界を凍りつかせる、静の王子。
 それほどの魔族が生き延びていたとすれば、昼界にとって大きな脅威だ。サシャナリアが急いでいるのもわかる。
 だが――ミルファが語っていた「リオ」なる魔族と、強大な魔公とのイメージは重ならない。
「確証があるのですか」
「確信がある」
 それ以上詳しく話すつもりはないようだった。サシャナリアは右手を振って小さく唱えた。光魔杖が部屋からついと飛来し、彼女の手のひらにストンとおさまる。
「ご苦労であったな。そなたのここでの仕事も、もう終わるぞ。一足先に大賢者府へと戻るがよい」
「私に、なにか手伝えることはございませんか?」
 無駄とは思いながらロージャーは言った。
「ソレノアへ向かわれるのでしたら、つい先日私も訪国したところですし、お役に立てることもあるかと」
「怪盗ルギスの使った百の魔法」
 いつも通りの無表情で、サシャナリアは光魔杖の輪をカチカチと回している。
「これは禁書指定されておるが、同名の絵本のほうが有名じゃな」
 ロージャーは返す言葉を持たなかった。それがどうしたのですか、と白々しく問うことは、自分を馬鹿に見せたいか、相手を馬鹿だと思っていると示すかのどちらかでしかなかった。
 おそろしく聡明な少女は、ロージャーを責めなかった。顔を上げて、彼が目をそらすことを許さず、淡々と言った。
「あの娘の処遇じゃが、しばらくは幽閉を続けることになる。漏らされては困ることが多すぎるでな。定型dl07、335を終了。――なに、カラリエット凍結さえ解ければ問題はない。その頃に我がまた直々に相手をしてやろう。出てきた時には美しい金の髪の娘に戻っておるよ。王子の誕生を祝ったその日のように」
 サシャナリアは全てを言わなかったが、ロージャーには伝わった。
 見た目も、中身も、巻き戻るのだ。何事もなかったかのように。
 それがミルファ・アクラにとって幸せなことなのかは、ロージャーに判断できることではなかった。
 だが少なくとも、今の彼女は、決してそれを望まないだろう。
 ロージャーは目の前の少女と違い、感情を隠すことには至って不器用であった。ゆがんだその表情を前にして、サシャナリアはもう一度釘を刺した。
「余計なことはせぬほうが身の為ぞ。そなたの新しい研究、実を結ぶのを我も楽しみにしておるのじゃ」
「とは――」
「魔力に異なる方向性と波長があるという、あれじゃよ。非常に興味深い」
 思わぬ言葉にロージャーが瞬く。教師に褒められた生徒の顔で。
「あのレポートをご覧くださったのですか? あれは、まだ仮説で」
「いや、有り得るぞ。我もしばしば、複数の術士で事をなす時、不確定の要素が混ざることには気づいておった。事が片付いて島に戻ったら、一緒に色々と試して」
 チカ、と視界が白く染まり、ロージャーは目をごしごしとこすった。魔術信が着いた。彼がそう思った時にはもうサシャナリアは部屋に戻っていた。
「さすが、お祖母様じゃ。早いの」
 無礼とは承知の上で、ロージャーは彼女の後を追い、庭から部屋へと踏み込んだ。そこにはわざわざ魔術信の着信台が設えてあった。高価で希少な魔術具を必要とする設備なので、普通ならサリアン王城に備えられているものを借りて使うところだろうが――大賢者府の使いにそのような常識に従う理由はまあ、ないだろう。
 熱を帯びた魔術信を光魔杖で目の高さに浮かばせながら、サシャナリアは大賢者からのメッセージを読んでいた。
「ついに薪をくべる人生か」
 サシャナリアが小さく笑んだ。ロージャーは目を疑ったが、確かに彼女の表情は動いていた。
 はたして彼女が誰をわらったのか、その時のロージャーにはわからなかった。



 最近、日記を書くのをさぼっていた。夢の中のようにふわふわとして落ち着かなかった期間と、その後の忙しくて日記を書く暇もなかった期間との両方のせいだ。まずは順を追って、良かったことから、書こう。
 金貨をもらった。
「私は約束は守る主義だ。もちろん、己の裁量のかなう範囲で、だが」
 宰相閣下はそう言って僕に三万金貨を手形で寄越した。
 それは幸運きわまる話だった。元々、今回の救出劇は、ミルファ嬢が自分で勝手に帰ってきたようなもので、我々が懸賞金の対象に当たる任を果たしたとは考えていなかったのだから。しどろもどろになりながら僕は、自分の功績の小ささについて説明しようとしたが、孫娘を連れ帰ったのは結局、怪しげな脅迫状を信じて行動を起こした魔術師とメイドと助手の三人であり、魔術師はここにおらず、メイドは「行方不明」だ、と言われ――そしてまあ、つまり――これだけおいしい話を断る理由はどこにもなかったので、僕はありがたく受けることにしたのである。宰相閣下の御前をできるだけ早く辞去したかった、という精神的な事情もあった。
 本来は三人の功績として、ということだから三等分にすべきだが、ロージャーは世俗から隔絶された賢者の島に移っている。そこに手形を引き出すための銀行があるのかどうか。そもそも中央では貨幣を使うのだろうか。考えたこともなかったが、使うかもしれない。戻ってきた時には一応、取り分について話をせねばなるまい――と思っていたが、後日、再会した彼は受け取りを謝絶した。その話は後だ。
 それから、殿下だ。彼女に懸賞金を受け取るつもりがないか、なんとかして訊いてみたいと少し考えたが、ばかばかしさにすぐ気づいた。つまり僕はそれを口実にして彼女と秘密のやりとりをしてみたいと思っただけなのだ。表沙汰になれば殿下の立場を悪くしかねない話なのに、自己満足のために危険を冒したいなどと考えて。僕は本当に馬鹿だ。大体、彼女はいらないと言うに決まっていた。はじめから、そんなものが目的ではなかったのだから。
 念のため、功績があったと言えなくもないあの従騎士の子ども――フィルにも、手紙を出して分け前が必要かどうか訊いたが、ほどなく「必要ない」という素っ気ない返事があった。子どもだから金がどれだけ身を助けてくれるものか、実感がわかないのだろう。後々悔やむことになるかもしれないが、その時はその時だ。
 安定して身を立てるため、安直に文官になろうと考えていた僕だけれど、これで選べる途はぐんと広がった。それこそ、中央以外のどこへでも行けるし、事業を始めてもいいし、なにか新しい勉強に打ち込んでもいい。高望みをしなければ爵位だって買える。
 ただ、思いがけなく手にした大金というものは、あっという間にどこかへ羽ばたいて行ってしまうこともよくあるのだ。僕は用心深い。家族にもまだ打ち明けていない。この先の人生をどうするか、じっくり考えよう。そう思って、今までより少しいいものを食べ、少しいいものを着、ご近所さんに彼女でもできたのと言われながらいつも通りの仮住まいの中で色々な本を読みあさっていた。経済、旅行、成功者の伝記、遺跡で一攫千金、貴族の作法、高く売れる美術品、遺産相続人殺害事件、有名シェフのお薦めレシピ、虹の国ラルパの宝石細工。真剣に読んだもの、途中で飽きてしまったもの、様々であった。
 そうこうしている間にロージャーが戻ったのだ。本当に突然のことだった。かの光波乗が使われたということで、僕もその瞬間を見てみたかったものである。
 小賢者と共に再びサリアンへと戻ってきたロージャーは、僕を大変こき使った。ソレノアの薔薇の谷で不意に中央へと召喚されて以来であるので、雇用関係は切れていないといえば、まあそうだ。しかも例の賞金の彼の取り分を丸々もらうことになった僕は、この労働に巨額の報酬を受け取っていたも同然であった。文句の出ようはずがない。
 僕は久々に助手らしい仕事をし、懐かしの研究室で朝から晩まで魔法薬の実験につきあった。
 殿下もたびたび姿を現し、三人で作業をしていると、まるで旅をしていたあの頃に戻ったかのように錯覚した。楽しい時間だった。ゆえにか、あっという間だった。
 ロージャーは再び大賢者府へと戻っていった。正式に、サリアンから中央へと移る契約が成された上で。
 大賢者府入りを認められるということは、魔術師にとって最大の栄誉であり、そのような魔術師を輩出したサリアンにも箔がつく。いいことずくめの話であり、ロージャーもこれからの研究の日々に胸が躍る、と言っていた。しかし、心残りがあるのは目に見えてわかっている。
 ミルファ嬢のことだ。
 小賢者がいなくなったというのに、彼女はいまだ城の地下に留め置かれている。これには殿下もひどく心を痛めておられた。
 見張りに立っているのは、小賢者の手配した者たちだ。まるで人形のように表情のない、気味の悪い兵である。おそらく、陛下や宰相閣下が命じてひそかに逃がそうとしても、すぐに大賢者府に知られることとなるだろう。
 今日あらためて日記を書いたのは、気持ちを整理したかったからでもある。
 手元には、新しい人生を買えるだけの額がある。
 孫娘の幸せを願ったじいさんがぽんとくれた金だ。
 どいつもこいつもが、いらないと言って全額が転がり込んだ。
 この金をもらうに値するだけの仕事を、僕はしていない。それなら、今からでもやってやろうじゃないか。
 僕だって、約束は守りたい。
 だから、明日、鐘を鳴らして、カークはいなくなろうと思う。




           



2016.06.07 inserted by FC2 system