リオが殺される。
ミルファは冷たい床にへたりこんだまま、思った。それだけが頭をぐるぐると回っていた。
リオが殺されてしまう。
あたしのせいだ。きっと変なことを喋ったのだ。言ってはいけない何かを。
ああ、でもあの子はなにか勘違いをしている。魔王の一部だなんてそんなはずはないのに。
きっと、似ている別の魔族だ。目がどうのと言っていたけど、はっきりとあの左目のことを言ったわけじゃない。
ミルファは必死で最後の会話の詳細を思い出そうとしていた。混乱して、記憶が曖昧なのだ。
自信満々な態度に気圧されて、図星をつかれたように思い込んだけれど――そもそも、あれは本当にリオのことだったのだろうか? おかしな目をした魔族がリオひとりだけとは限るまい。魔族だって新しく生まれたりするのだから、全員を知ることなんてできるはずがない。
でも、あの賢者はそうと信じたようだった。
「魔王の子だなんて、そんなはずない。そんなはず……そうよ。塔で闇の王のこと話した時、まるで他人事だったわ。それに」
ミルファは魔王のカードを思い浮かべた。
「……似てないし」
けれど、ふと心になにかが引っかかった。
勢いよく立ち上がり、隠してあったマジックカードを引っ張り出す。中から探し出したその一枚、魔王の絵を月光灯にかざすようにして見た。
後に想像で描かれた物だ。こんなものではなにもわからない。そう思っていたけれど。
魔王は片目がつぶれていた。右目しか開いていなかった。
「左目が、ない……」
ミルファはカードを鼻先まで近づけて魔王の右目をよくよく見た。もしかしてあのリオと同じ、まだらの目ではないかと。しかしその絵はあまりに小さく、目の色を判別することは出来ない――というよりはただ黒く点が描かれているだけだった。
「あの目」
リオの印象の中で唯一、異質だった不気味な左目。
はじめて見た時の、心の芯からわき上がった震えを、覚えている。
「魔王の一部……氷の魔公」
ミルファは隻眼の魔王を食い入るように見つめ続けた。
サリアンに滞在するサシャナリアのために用意されたのは、賓客用の部屋などという程度のものではなかった。本宮から少し離れた場所にある蒼草宮と名付けられた建物、その一棟すべてが与えられていたのだ。
美しく整えられた庭園を抜け、ロージャーは蒼草宮に足を踏み入れた。贅をこらした造りの建築である。柱のひとつひとつにさりげない彫刻が施され、壁は飾り硝子でできていた。効果的に配置された鏡や水晶の力で、太陽の光がいたるところで反射してきらきらと輝く。少しまぶしすぎるくらいに。
室内の調度品も、光の国の時代から伝わったような貴重な物ばかりだ。ひとつ買うのに、ロージャーの一年分の給料をつぎ込んでも足りないような。
ただロージャーの見たところ、サシャナリアはこれらをひとつもありがたがっている様子がない。壺の一つさえしげしげと眺めてはいない。それが当たり前というより、興味がないのだろう。研究資料に没頭している方が楽しいのだろう。特に骨董について語らったりしたことがあるわけではないが、ロージャーは彼女が自分と同じ種類の人間だと肌で感じていた。
「ロージャー様、お目通りですか?」
ちかちかする目をしばたいていると、使用人が声をかけてきた。
ロージャーは蒼草宮への出入りを許されている。門衛は顔を見ただけで通してくれるが、部屋に声もかけず入っていくというわけにはさすがにいかない。
「ああ。お戻りか」
「はい、先ほど」
ロージャーはサシャナリアが発光室へ出かけたという話を小耳に挟んで駆けつけたのだった。結果を聞くために。ミルファが先日の通りうまく話せたのかを知るために。
すぐにもドアへ向かおうとするロージャーを、使用人が差し止めた。
「少々お待ちください。ただいま、儀式の最中とのことでございます。誰も通さぬようにと」
「儀式?」
使用人は一礼してドアの前に立ちふさがった。これ以上は話すつもりもないのだろう。
彼はサリアンの人間ではない。サシャナリアが連れてきた。いつの間にかいたのだ。他にも何人か、同じような使用人がいて、サリアンの者は蒼草宮から遠ざけられている。
賢者の使用人は賢者に忠実だ。無駄なことは口にしない。ニコリともしない。
これは交渉しても無駄だろう。ロージャーは引き下がり、ぶらぶらと庭に出た。昼界の常として、豪奢な建物であればあるほど窓の硝子は大きく、内部がうかがいやすい。もちろんそれを防ぐため、庭が広く取られるのだが。
ロージャーは木の陰からそっと、研究室として使われている部屋をのぞいた。
確かにサシャナリアがいた。プラチナブロンドの髪が見える。机に向かってなにか書き付けているようだ。――どこが儀式なのだ?
首をひねっていると、硝子の戸を開け、サシャナリアが直接庭へと歩み出てきた。
「何用じゃ?」
ごく自然に声をかけられ、ロージャーは肝を冷やした。なぜ気づかれたのだろうか。
「あ、いえその、お話が」
「しばし待て」
ロージャーをとがめるでもなく、サシャナリアは手に持っていた羊皮紙を頭上に高々と掲げた。
「太陽のもとへゆけ」
短い言葉と同時に手が離される。舞い上がった紙が、次の瞬間赤く燃えた。あとには白い灰がはらはらと落ちるのみであった。
魔術信だ。
サシャナリアは手紙を書いていたのだ。大賢者府宛ての。
ではやはり、ミルファのことで進展があったのだろうか。
インクで書き付けられていた文字は島へと向かってしまった。ここにはもう残っていない。
「大賢者様への報告ですか」
ロージャーは灰を踏むほどに彼女に近づいた。
「うむ。これでようやく我も動けるというもの」
「ミルファ嬢がなにか?」
「おや、すでに知っておるものと思うておったが」
サシャナリアは感情の読めぬいつもの調子で言った。ロージャーは内心ひやりとしながらも、平静を装った。
「ええ、発光室へいらしたと聞きまして。そのご様子ではなにか重要な話を聞けたようですね」
「うむ、首尾は上々じゃ。そなたもご苦労であったな」
「いえ、私などは」
「謙遜することはないぞ。さて、我はこれから大仕事じゃ。ソレノアへ向かわねばならぬ」
「ソレノア、ですか」
いやな予感がした。
太陽の光のせいだろうか。サシャナリアの瞳はいつになく大きく、興奮しているように見えた。
「お祖母様の返答次第ではあるがの。ともかく早急にことを運ばねば」
「彼女にカラリエット凍結をかけたものの正体がわかったのですか?」
ロージャーは焦れて単刀直入に訊いた。
サシャナリアは一歩ロージャーに近づき、顎を上向けて彼を見た。仕草だけならかわいらしい子どものそれであった。しかし、ロージャーは背に冷たいものを感じていた。
「うむ。はじめからある程度の目星はついておったのよ。氷の塔という名、夜の波を正確にサリアン王城へと真っ直ぐ伸ばしてみせた圧倒的な魔力――できれば間違いであってほしかったがな」
「氷の」
ロージャーの脳裏には、つい最近になって知ったばかりの魔族の名がひとつ浮かび上がっていた。
昼界に残された魔族に関する情報はあまりにも少ない。そもそも光の国と闇の国の間に交流はなく、互いの生態は殆ど憶測のまま、あやふやな伝聞に伝聞を重ねたものばかりが広まっていた。数少ない情報源となっていた、両者の交わる黄昏の地は戦場と化してしまい、かの地がどこであったのかすら今ではわからない。
戦いのさなか、人間と魔族の将の間で文が交わされることもあったらしい。交渉はどれも成功しなかったと伝えられるが、交渉らしきものが試みられたという事実だけでも重要だ。一応、話を聞いてみようという姿勢をみせた魔族も存在したということだから。
その文が残っていれば貴重な資料となっただろうが、あいにく混沌期でなにもかも失われた。生き延びた人々の記憶だけが手がかりだった。
しかし再び分かたれた世界の中、それらは何の役にも立たない石ころと同じになっていた。人々はこれからのこと、特にどうやってそれぞれの国を作っていくかということに夢中だった。
もはや過去のものとなった脅威はお伽噺になり、どこからが空想でどこからが事実なのか判然としない。現在の昼界に伝わる魔族の話など、悪いことをしでかした子どもに聞かせる怖い物語でしかないのだ。そんな各地の伝承ですらロージャーは集めていた。夜界についての研究の足しにするために、藁にもすがる思いで。
だというのに大賢者府に招かれたとたん、状況は一変した。
かの島には残されていたのだ。情報という名の宝が、一般の人々には手の届かぬ形で。
「ツァズセース=タヅァス?」
まさかという思いでその名を口にした。
それは魔王の長子だ。最後の戦いでは、魔王に代わり軍を指揮していたという。
「うむ。ソレノアの南に潜んでおるは魔王の種じゃ。早急に処分せねばならん」
サシャナリアは事も無げに肯定した。
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