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 ヤットコ沼のほとりに、ツルセダゴケが生い茂っていた。あまりのめずらしさに、それを見つけたナルジフはいつもより高くとびあがった。
 美しい闇、完全なる漆黒が世界から消え去ってから、ツルセダゴケは力を失った。他の植物も、動物たちも、同じだった。夜が生まれても、そこは元の闇ではない。かつて国じゅうに満ち満ちていた魔力は薄くなり、皆が飢えていた。
 ツルセダゴケは魔力を好む。魔力を蓄えて育つのだ。
 いまだにこんな風に群生しているのは奇跡といってよかった。ナルジフはすぐに飛び込みそうになり、しかし自重して、用心深くあたりの様子をうかがった。
 こんなごちそうがあるのだ。強い獣が独り占めしていてもおかしくない。
 目をこらすと、いくつか動くものがあった。マイマイカトンボ、ヤミコバエ、トビアリなどの小さな虫たちが、魔力に惹かれて集まっている。カエルのナルジフにとってはこれまたごちそうだ。
 がまんしきれなくなって、ジャンプした。コケの上にとびのって、夢中で虫をとり、魔力を吸い込んだ。まるで夢の中にいるようだった。
 そうしていても、魔力はまったく減る様子がない。満腹になり、魔力に酔ったようになって、ナルジフはふかふかのコケの間にもぐりこんだ。もし天敵があらわれても身を隠してくれるように。
 しかしそこで、ナルジフはぞくりと身を震わせた。もぐればもぐるほど、魔力のにおいが濃くなっていく。これほど近くで触れたことはかつてない、強大な魔力が、その奥に潜んでいたのだ。
 その魔力は静かだった。まるで眠っているかのようだった。
 敏感な獣たちは、惹かれるより先に恐れて寄りつかなかったのだろう。
 ナルジフは自分もそうすべきだろうかと考えた。こいつが動かないでいるうちに、さっさと体いっぱいになった魔力を抱えて逃げ出すべきだろうかと。
 けれどこんなにツルセダゴケが広がっているのだ。この魔力はずっと動いていないに違いない。
 いったい何が眠っているのであろうか。ナルジフは好奇心を強く刺激された。
 もともとナルジフは知識に貪欲だった。仲間たちが危ないからと止めるのも聞かず、五将のひとりに数えられたリジャールニンに教えを請いに行き、側仕えを許されたのは彼の最も誇りとするところであった。リジャールニンを師とした期間はそれまでの彼の生涯でもっとも充実していた。師の魔術の構成は素晴らしかった。力の弱いナルジフにはまったく真似ができなかったが、だからこそリジャールニンもナルジフが学ぶことを許したのかもしれなかった。ナルジフはカエルの仲間内でも変わり者で通っていたが、リジャールニンはもっと変わり者だった。それで気が合ったのかもしれない。
 リジャールニンが秀でていたのは魔術だけではなかった。歴史に生物、いにしえの言葉や木々や石についても造詣が深かった――つまるところ師が本当に追究していたのは世界の成り立ちであった。リジャールニンが語って聞かせてくれたことを、ナルジフは余さず記憶にとどめようと努力し、師の言葉の一片たりとも聞き逃すまいといつも側に侍っていた。
 リジャールニンが命を落としてからというもの、ナルジフは行き場をなくした。ちょうどその時代は闇の国全体が騒がしく、あちこちで大きな争いが起こっていたのだった。ナルジフも身を守るのに必死で、知を深めるどころではなかった。
 弱い生き物たちは戦場から遠く離れるだけでせいいっぱいだった。強い者は誰も彼も、手当たり次第に食って力をつけ、闇の王に目をかけてもらおうと目論んでいた。どこに行っても敵がいた。ナルジフが生き延びることができたのは、リジャールニンから教えられた身隠しの知識が役立ったためでもあった。
 ナルジフが今まさに手を伸ばそうとしているコケの中の魔力は、懐かしい師の力よりずっと強かった。けれどかの知将と親しく言葉を交わした経験をもつナルジフは、それをただ恐ろしいものとは感じなかったのだ。真に力をもつ者は、弱い生き物を無碍に捕まえたりはしないものだというリジャールニンの言葉を信じていたためでもある。
 知りたいという気持ちが小さなカエルを突き動かした。コケを掘り、払い、かきわけ、時間をかけてようやくその魔力の固まりに触れた。腕の一部だ。
 やはり、ヒトの形をしているようだった。リジャールニンと同じなのだ。
 ぴくりとも動かないそれに絡みついているのはコケだけではなかった。ヌマイモの茎やザワシダの根も張っていた。引きちぎり掘り起こすのは相当に根気のいる作業だったが、ナルジフは諦めなかった。幸いなことに食料と魔力には事欠かなかったので、少し休めばすぐまた元気に動くことができたのだ。
 なんとか片腕から肩、頭の付近をさらしおえると、ナルジフは顔に体を近づけて声をかけた。
「もし、高名なお方とお見受けいたします。これなるはかつての西将、知のリジャールニン様の配下であったナルジフと申す者」
 返事はなかったが、ナルジフは続けた。
「このありさま、よほど長い時間ここでお休みになっていらしたのでしょう。どこか具合の悪いところがございましたらば、このナルジフ、知恵の限りを尽くしてお救いいたしますじゃ。なんなりとご下命くだされ」
 と、目が開いた。
 ふたつの目はまったく違っていた。右はリジャールニンのような、ヒトに似せた目であった。
 しかし左は大きく丸かった。虹彩はまだらだった。
 ナルジフは知っていた。その色を持つ者を。片方は話に聞いたことしかなかった。しかしもう片方については直接まみえたことがあった。
 緑と紫の左目、青い髪の若者。
「これは、若様ではございませんか! ご存命であられたとは!」
 ナルジフは彼の胸の上に乗っかっていたことに気づいて跳ねのいた。
「よくぞ無事でいらっしゃいました。このナルジフを覚えておいででしょうか。リジャールニン様のもとで一度、お声をかけていただいたことがありまする」


 ツァズセース=タヅァス。
 彼に仕えることが、ナルジフの生き甲斐になった。
 王の子は驕らず、惜しまず、怠けぬ人柄で、なにより思いやり深かった。自らが身を起こしたことで引きちぎられた植物たちに去り際、魔力を与えていったことでもそれがうかがえた。以来、側を離れず、ナルジフは新たな主に献身している。
 氷の塔という拠点を得た時、主はこう言った。
「今日からここが僕たちの城かぁ」
「我々の、ではありませんぞ。あなた様の城でございます、若」
 ツァズセース=タヅァスは首をかしげた。謙虚なのも彼の美徳であった。
「僕の? なら僕がこの城の王様?」
「さようでございます」
 うやうやしく礼をするつもりで頭をさげたナルジフを、主は両手でひょいと持ち上げ、そのまま頭に載せた。
「じゃあ、君が僕の王冠だ」
 ナルジフは感動のあまり転げ落ちるところであった。
 そんなやりとりがあってから、ナルジフは主の頭の上に座ることが多くなった。ナルジフが大いに喜んだのを主が覚えていて、ことあるごとに載せたがったのである。もちろんナルジフは恐縮した。仕える御方を両手両足で踏みつけ、見下ろして喋るなど言語道断であると。しかし主がまったく気にしないので、ナルジフもじきに慣れてしまった。
 そうこうしているうちに、後から仲間になった小さな者たちもめいめいに自分の指定席を決めていった。ゾラナは肩に巻き付き、ウーシアンは左腕から手の甲の間、というように。パットなどは自分のサイズが大きいので主君に乗れないことをたいそう不満がった。ツァズセース=タヅァスは「じゃあ背負おう」と提案したが、自分の場所が狭くなるとゾラナに猛反対され、エンディアもいい顔をしなかったので、結局一度背負って塔を一周することで円満解決したのだった。
 その時のゴール地点だった塔の上で、ツァズセース=タヅァスは空を見上げていた。ナルジフはいつものように頭に乗っていたので、伏せて光が目に入らないようにしていた。
「うん、空の針穴は今日もきれいだ」
 主が満足そうにうなずくので、ナルジフは揺れる頭の上でバランスを取らねばならなかった。
「若、あまり見つめては目の毒ですぞ」
「大丈夫だよ、僕は強いから。それよりナルジフ、僕のことはリオって呼んでって言ったじゃない」
「そうおっしゃられましても、若は若様でありますゆえに」
「だって、友だちは名前で呼ぶものなんだよ。僕はナルジフをナルジフって呼んでるのに」
「若は儂の主君であります」
「でも友だちだよ。僕はナルジフが大好きだし、ナルジフもそうでしょ」
「それとこれとは」
「同じなんだよ。ねえ、昔の名前じゃ長すぎて呼ぶ気になれないけど、今の名前はいいよね。みんなが呼んでくれたら、僕はこの名前をくれた友だちのことをずっと覚えていられる。倍うれしいんだ。だからお願いだよ、ナルジフ」
 ツァズセース=タヅァスが、いや、リオがそう言うので、ナルジフはかなりの抵抗を感じながらもその呼び名を使うことにした。
 たぶんこの頭の上にいることと同じように、そのうち慣れてしまうのだろうと思いながら。





           



2011.12.16 inserted by FC2 system