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 ミルファは、生まれた時からミルファ・アクラであった。アクラ家の娘として恥じぬよう、ふさわしい教育を受け、求められる振る舞いを演じてきた。
 けれど選ぶ道がまったくなかったわけではない。少なくとも、一年ほど前までは。それが誰それの妻という形をとっていたとはいえ、国内の貧乏貴族から友好国の王族まで、いくつも選択肢はあった。
 目の前の幼い少女はといえば、生まれた時から死ぬまでレイニードである。
 賢者の道しか選べないし、許されない。なにしろ彼女のかわりはいない。現大賢者とサシャナリアの他に存命の女のレイニードはなく、つまりこの少女は必ず子を成し、必ず大賢者となることが定められているのだ。
 そうしなければ、この世界は再び混沌へ飲み込まれる。
 これまでのミルファにとって、レイニード一族とは、魔族と同じくらい自分から遠い存在であった。興味も関心もなく、ただそういう生き物として変化せずにあるだけの、物語の中の登場人物と変わりがなかった。
 けれどこの時、ミルファは目の前の少女が生きた人間であるということを実感として受け止めたのだ。
 魔物が恐ろしいだけの存在ではないと知ったのと同じように。死ぬまで太陽を守る運命にあるこの少女が、世俗を超越した神ではなくただの女の子なのだということを。
「……賢者の島はあたたかいんでしょ? だから寒さに弱いんじゃないですか」
 だからといって、油断はできない。できないが、それほど嫌えなくなってしまったのも事実だった。
「それもあるやも知れぬ。太陽に近いからの」
「島では影がほとんどないって本当ですの?」
「うむ。ないわけではないぞ。じゃが真下にしかできぬでの、伸びぬのじゃ。そなたこそ、夜は寒かったのではないか」
 ミルファがそらした話を、サシャナリアはさらりと戻した。
「ええ、まあ。はじめのうちは慣れなくて風邪をひいたりしましたわ。でも、さっき話したあの青い炎のランプをリオがたくさん用意してくれて、だいぶましになりました」
「ふむ、魔力の炎が視界を確保するだけでなく、暖ももたらしていたとは……便利じゃの」
「あと、魔物の毛皮みたいなものも使っていましたわ。寒いといったら最初に持ってきてくれましたの。ね、親切じゃありません? 魔族かどうかは知りませんけど、リオは優しかったですわ。壊滅的に気が利きませんでしたけど、言えば半分くらいはわかってくれました。あ、でももう少し……ええと、三分の一くらいかしら。とにかく頭が悪くて理解が遅いんです。丁寧に説明しないと通じないって悟るまでが大変でした」
「……持ち上げるか落とすかどちらかにせぬか」
「あら、本当のことなんですのよ。歌も、何回歌ってあげてもなかなか覚えなくて」
 ミルファは懐かしさに目を細めた。なんにせよ、ずっと自分の胸の内だけにとどめていたリオのことを口に出して話せるのは少し楽しかった。
「そなたの話を聞いていると、その魔族はまるで子どものようじゃな」
「わたくしもそう思っていましたわ。見た目は青年といった感じでしたけど」
「ふむ……」
 サシャナリアはステッキを鳴らす。
 彼女が考えに沈んでいるようだったので、ミルファは特に口を挟まなかった。
 なにも知らない子どものようだと思えばその実頑固じじいで、でも素直なところもあって。盲目的かと思えば純粋で。そんなリオのことを考えていた。
 記憶の断片を引き出しているうちに、忘れていたことがいくつも思い出せた。
 何気ない会話をどれほど交わしただろう。これから先、どれだけ覚えていられるだろう。
 ミルファは表情に出さないように気をつけつつ、ひっそりとその思いをかみしめた。
「そういえば、ロージャーの報告にあったの。そなたの家に届いた手紙というやつ。確か、差出は氷の塔となっておったな」
「ああ、身代金の。ええ、彼らの住み処がそういう名前だったんです」
「なにが氷なのじゃ?」
「え、さあ。みんなでつけたと言っていましたけど。……塔がつららのような形だから、でしょうか」
 考えたこともなかったので、ミルファは適当に答えた。
「で、塔というのは?」
「あった、らしいです。その建物というのが、砦のような……たぶん、元は光の国の土地で、人間が使っていたのがそのまま残っていたんじゃないかと」
 サシャナリアは規則正しくステッキを動かし続けていた。
「なるほど。じゃがそれは魔族が建てたとも考えられるの。人間趣味といって、魔族の中には光の国の調度品を集めて飾ったり、豪華な衣服を身にまとったりしていた変わり者もおったのじゃ」
「へえ……」
 ミルファは素直に反応した。それは聞いていなかった。リオにはきっとその趣味はなかったのだろう。あればもう少しましな格好をしていたはずだ。
「魔族というのはそもそもが人間に並々ならぬ関心を寄せておる魔物での。一説にはそれゆえに人の形をとるようになったとも言われておる。身代金などと言って昼界の金銭を欲したのというのも、そのあたりに原因があるのじゃろな」
 ただの食糧難です、とは言えずにミルファは黙っていた。どうもこの小さな賢者は魔物を、というよりリオを買いかぶりすぎている。こんなにダメなところを教えてやっているのに。本気にされていないのだろうか。
「ソレノアで発見されたそなたのネックレスというのも……」
「ああ、はい。実は、リオにあげました。返事がなくて身代金がもらえないというので、売って、代わりにわたくしの食べ物を買ってきてもらおうと」
 ミルファはそこで言葉を切った。これ以上進むとここまで避けてきた獣人の話にどうしてもぶち当たってしまう。
 そんなミルファのためらいを読み取ってか、サシャナリアがかわりに続けた。
「黄昏に仲介させたか」
「え」
「言うな。我も聞かぬ。あれに関しては不干渉が鉄則じゃ。これ以上は話せぬし、そなたも忘れよ」
 黄昏の者。獣人をそう呼ぶことを、ミルファはあの時まで知らなかった。少なくとも、昼界では聞かない言葉だった。
 やはり大賢者府は承知しているのだ。獣人が夜と昼をまたいで存在することを。
 それでいて、罰したりするつもりもないのだ。
 安心はしたが、不可解でもあった。そこまでわかっているなら、魔族のことなどミルファではなく獣人に聞けばいいのに。
「……帰る時は、目隠しをして、彼らに運んでもらいました。無理だと聞いていたんですけど、戦争になりかかっているということで、特別に」
「そんなところじゃろな。いや、もういい。終わったことじゃ。魔族の話をせよ」
 サシャナリアはひらひらと手を振り、話を打ち切った。
 その徹底ぶりは不自然なほどだ。彼女がミルファを閉じ込めてまで「内密」にしたかったのはこちらの問題の方なのではないかとさえ思えた。魔族のことは聞いていないところまでぺらぺらと話すのだから。
 大賢者府は獣人になにか弱味でも握られているのか。これは詳細に探ってみるべきだろうかと一瞬考えたが、やめた。ぼろを出すのがおちだ。そもそも、秘密を守るというのが彼らとの約束だった。
「もうだいたい話しました。毎日食べて、眠って、たまに退屈しのぎに話したり歌を教えたりしただけ。他にはなにもありませんわ」
「それでは困るのじゃがの」
「あら、害がなくていいじゃありませんか」
「ま、それに越したことはないが」
 サシャナリアはふっと息を抜いて長椅子の背にもたれかかった。
「そうでしょう? もう本当に、悪意というものの感じられないばかでしたから。それは保証いたしますわ」
「外見も、痩せてみすぼらしいだけで、開ききった片目以外は特徴と呼べるようなものもなかったのじゃな」
「はい。でも痩せていたのは途中からましに……」
 サシャナリアが無言で立ち上がった。毛布がばさりと床に落ちる。
 ミルファは自分の失敗を悟った。
 開ききった片目。リオのあの、まだらの左目のことに違いなかった。
 まさか。一度も言わなかったはずだ。でもどうして。
「いえ、えっと」
 動揺ははっきりと伝わってしまっただろう。そのことがますますミルファを焦らせた。
「よいか、それはツァズセース=タヅァス。正式に称号まで含めればレグザスズ・ツァズセース=タヅァス・ルダという。確かに長いの。魔族の中でも群を抜いておる。区切りながらでなければ我も舌をかみそうじゃ」
 昼界では、仲良くなるとそうするの? いいよ。僕はね――
 その後に続いた言葉は、まったく意味不明の呪文のような響きは、そんな音でできていただろうか。はっきりとは思い出せない。けれど、似ていたように思えてならなかった。
「そんなじゃありません。リオは、それはリオの名前じゃない」
 ミルファは否定した。嫌な予感がしていた。
「ほう、なぜ言い切れる? 記憶しておらぬのではなかったか」
「それは」
 なぜわかってしまったのだろう。いつから知られていたのだろう。ミルファは震えた。
「そなたはよくぞ生きて戻った。しかもその身に確たる魔力を刻みながら。これで昼界は救われる」
 サシャナリアの声ははずんでいた。心からミルファをたたえているようだった。ステッキを片手に、足取り軽く歩き、ミルファの椅子の真横で立ち止まる。
「ツァズセースはかの大戦の前線で総指揮を執っておった。異名は不動の静謐、または無音の薄氷という。烈火の悪魔と対をなすように、氷の魔術を得意としたのじゃ」
「ち、違います!」
 ミルファは立とうとして椅子を蹴倒した。
「ほう、なにがじゃ? 我は急ぐで手短に話すがよい」
「リオは、リオは魔王にはなりません。他の魔族を知らないし、魔力を集めたりもしていません。だから誤解です、そんな、偉い魔族じゃありません。カエルがなによりも正しいと信じているような、ただの食事係で」
「ツァズセースは新たな魔王になるのではない。元から魔王レグザの一部なのよ。レグザスズはレグザの子、ルダは王を継ぐ者を示す。どうじゃ、こうして意味がわかれば覚えられるのではなかったか」
 ミルファが言葉を失っているうちに、サシャナリアは扉の前まで進んでいた。
「やはり、そなたは絆されやすい」
 それが最後に投げられた台詞だった。扉は重い音とともに閉ざされた。




           



2011.11.21 inserted by FC2 system