なにを言われたのかすぐには理解できなかった。それで、咄嗟に反応することができなかった。
 ミルファはぽかんと口をあけ、突っ立ったままそれを聞いていた。
「夜界で命をつなげる人間などおらぬ。いるとすれば、それはヒトに似た別のなにかであろうの」
 魔族。
 玉座の間にいた全員が、その単語を思い浮かべただろう。
 冷たい視線が、困惑した視線が、ミルファに次々と刺さる。
「この女を捕らえよ」
 ステッキがミルファを指し示した。
 身体がかっと熱くなり、ミルファは叫んでいた。
「わたくしはミルファです、本当です!」
 使者は取り合わなかった。もはやミルファと目を合わせることすらしなかった。
「聞こえぬのか? こやつを牢に入れるのじゃ。魔物が化けたか、巧妙に作られた偽物か、あるいは洗脳されているのやもしれぬ」
 騎士たちが鞭打たれたように動き出し、ミルファはあっという間に両腕を拘束された。
 引きずられながら、ミルファは王を見ていた。王もミルファを見ていた。真っ青な顔で。
 宰相サディアスが側についていなければ何も出来ない王だ。そんな風に揶揄されることも多いレナードだった。果断でなく、峻烈でなく、柔和でもなく。
 そんな風評を気にしたことなど一度もなかった。
 ミルファにとってはただ、優しい叔父だった。
「叔父様!」
 この場でたった一人信じられる存在に、ミルファは手を伸ばした。
 サリアン国王は一歩進み出た。ミルファに手を差し伸べるためでなく。
「彼女を発光室へ」
 重く、よく響く声だった。
 王の命令に、騎士たちは戸惑い、大賢者府の使いに目を走らせた。
「三重の扉に守られた、この城のどこよりも厳重に閉ざすことのできる場所です。異存はありますまい」
 レナードの言葉に、サシャナリアは手にしたステッキを二度まわした。
「……よかろう」


 国王の機転は、ミルファを状況的に救った。牢獄と発光室では雲泥の差があった。ひたすらに広いその場所はある程度清潔に保たれていたし、椅子もテーブルも用意されていた。欠点と言えばベッドのないことくらいだった――発光室は夜の間にこもる場所、そして、夜が来ている時に眠るのは危険だからね。
 ミルファを捕らえるという決定を覆すことはたとえ国王といえど不可能だったから、レナードのこの思いつきはわずかな時間でなされたものにしてはかなり上等な部類といえた。ミルファは叔父に感謝しながら、椅子の背に寄りかかって目を伏せた。
 はじめは絶望的な気分だった。
 拷問かなにかで強制的に喋らされるか、半年間放っておかれた後で魔法をかけられるか。どちらにしてもいいことはない。ミルファの安全と秘密の保持と、双方が満たされる道はない。どちらかだけならまだしも、二つともが損なわれる可能性の方が高い。
 そして、どちらが大切かといえば――単純に重さだけで考えるなら、もちろん秘密の方だ。明らかになれば、氷の塔の仲間と黄昏の者たちすべてを巻き込んでしまう問題だ。
 生きていた魔族、夜界と昼界を行き来していた獣人。
 昼界の人々にとってはどちらも脅威だ。どれほど危険視されることか。大丈夫だ、彼らにはまったく害意がない、などと主張しても通るまい。迫害され、攻撃されれば黄昏の者たちとて黙ってはいないだろう。彼らには魔法はなくとも桁外れの力がある。戦争になり、多くの人が死ぬ。ミルファにはその未来が想像できた。
 だから、いっそ。
 ここで死ぬべきなのかもしれない。永遠に口をつぐむために。
 拷問なんて受けたことがない。耐えられる自信などありはしない。自分が強くないことを、ミルファはよく知っていた。甘やかされ、ぬくぬくと育ってきた。ハサミを握るだけで心配され、ひとつ転べばまわりは大騒ぎ。
 そんな弱い自分が、明らかに大勢の人が死ぬと分かっているからといって、引き替えに自分を殺せるだろうか。ミルファは自問した。
 舌をかんで死ぬのは難しいと聞いたことがある。ナイフなんか持っていない。壁に頭を打ち付けるとか――そうだ、あの壁に掛けられたいくつもの月光灯、あの火をドレスに燃え移らせるのはどうだろう。
 火に巻かれる自分を思い浮かべただけでぞっとした。小さな賢者がステッキを振り、魔法の炎に包まれたときの感覚がよみがえって鳥肌が立った。
 熱かった。息が出来なかった。それでも髪の一本すら焦げていなかったけれど。
 もしもこの身体にかかっている術が完璧じゃなかったら、どうなっていたことか。もちろん、あたしが大やけどを負おうと、あの子どもは意に介さないだろう。
 そう、サシャナリア――あいつはこともあろうに、あたしを偽物扱いしたのだ。
 やりとりを順に想起していくうち、ミルファはふつふつと怒りを募らせはじめた。
 初対面のくせに、さらわれる前のあたしに会ったこともないくせに、あんたになにがわかるっていうの? 身近な人たちがみんなあたしをあたしと認めているっていうのに、今頃のこのことやってきて、見当違いも甚だしい。大賢者の一族なんていってもまだほんの子どもじゃないの。だからあたしを本物と見抜けないの? 本当は馬鹿なんじゃないの?
 口に出して目の前で言えばそれこそ死罪になりそうなことを、ミルファは考えた。恐怖はすっかり怒りへと変換され、じっとしていられずにいらいらと立ち歩いた。あのエセ賢者め、思い通りになどなるものか。
 あたしは秘密を守ってみせるし、死んでもやらない。どこかへ逃げて、自由になってやる。
「あたしはミルファよ!」
 声に出して叫ぶと、涙が勝手に頬を伝った。


「ねえ、せめて本を持ってきてくださらない? 内容はなんでもいいの。物語でも歴史書でも絵本でも、いっそ論文でも」
 無駄とは思いつつも声をかけてみる。配膳に現れるメイドはいつも違う娘だった。しかも、絶対に喋らない。ミルファを見ようともしない。
 中には怯えて手をふるわせ、スープをこぼした者もいる。それだけで悲鳴を上げて出て行った。
 あたしは一体、なんだと思われているのだろう。
「本がだめなら毛糸と編み棒でもいいわ。とにかく退屈なのよ。時間をつぶせるものをちょうだい」
 メイドは食器を片付けるとそそくさと去っていった。滞在時間は一分もなかった。直立不動で見張っていた騎士たちがこれまた無言で扉を閉める。
 おそらく、絶対に口を開いてはいけないとか言いつけられているのだろう。うんざりする。
 ミルファはベッド替わりにしている長椅子に転がった。
 食事は持ち込まれてからすぐ扉が閉まり、十五分後に片付けが来る。食べ残しがあってもそこで終わりだ。全部持って行かれる。
 服は毎日着替えを用意される。その着替えすら見張られているようなものだ。一人でもできるわよとメイドに言ってみたが、とりあわれることはない。
 ひたすらに、退屈だった。
 ほんの数ヶ月でまた閉じ込められるはめになるなんて、あたしはとことんついてない。
 ミルファはため息をつき、ごろごろと転がったまま体を動かした。
「でも、あそこにはリオがいたわ。あたしの話を聞いてくれた……」
 じめっとした黴臭い部屋ではない。品の良いテーブルに椅子、温かい月光灯の光もある。食事も服も、ちゃんとしたものが出てくる。身体も洗える。そのあたりはきっと、叔父か祖父が配慮してくれているのだろう。
 寒さに震えて、ごわごわの毛皮を抱きしめて眠ったあの夜とは違う。ここは光の支配下だ。
 それでも、あの時は帰れると思っていた。
 今は。これからは。未来をどうすればいいのか、わからない。
 ミルファは考えた。考える時間だけはたっぷりあった。状況を、なんとかして変えなければいけない。




           



2011.09.03 inserted by FC2 system