そのステッキの長さは、およそ三十センチ。光魔杖と呼ばれる、特殊な魔術アイテムだ。賢者の一族の使う杖として広く知られていたが、その製造法も内部構造も一般には明かされていない。
 杖にはびっしりと銀色の輪がはまっている。サシャナリアはそれを動かしていたんだ。そうだな、きみの世界でいえば、ダイヤル式の南京錠みたいな感じ。使った事ある? あれの数字を合わせるみたいに、カチカチとひとつひとつの輪をセットする。杖の上から下まで、親指を使ってすばやく回し、位置をずらしていくんだよ。


「ミルファ!」
 弱くしかし鋭い声が割り込んだ。
 レナード・フィスタ・サリアンだった。
「おまえの覚えていることを、使者殿にお話ししてはどうか。もちろん、詳しく覚えていないのはわかっている。ただその、意識のなかった前後のことを、できるだけ思い出して、話してごらん」
「叔父様……」
「使者殿、彼女は隠し事をするような娘ではありません。ただ怖かった記憶を、忘れようとしているだけなのです。そうだろう、ミルファ」
 ミルファは国王の顔を見た。
「落ち着いて話せば、大丈夫だ」
 それはまさに救いの手だった。
 彼は緊張にこわばった顔で、それでもミルファを安心させようと、こまかくうなずいていた。
 ミルファはうなずきを返そうとした。どうにかうまく話せば、と思った。
「なにか誤解しているのではないか? 安心せい。別に痛みを伴うわけでもない。簡単な術じゃ」
 だがサシャナリアは取り合わなかった。
 カチン、と最後のひとつが嵌った。
「形式e99、発動。読み取り開始」
 ステッキがぴたりとミルファの額に当てられた。
 それはひんやりとしていて、ミルファからわずかに熱を奪った。
 狂った演技でもして逃げだそうか。
 バルコニーまで駆けて飛び降りようか。死体からでも「情報」は読まれてしまうだろうか。
 そんなことが頭をよぎったが、体はぴくりとも動かなかった。まばたきさえできなかった。
「これは……!」
 サシャナリアがはじめてその声音に人間らしい色をにじませた。動揺の色だった。
 ステッキが額から離れて、ミルファは呪縛から解き放たれたように息を吐き出した。ふらりと立ち上がり、一歩さがる。
 何も起きなかった。光も、音もなかった。それなのにもう魔術は終わったのか。夜で経験したことを、全て知られてしまったのだろうか。ミルファは胸を押さえ、目の前の少女を見た。その深刻な表情を。
 さらに一歩さがったミルファに、鋭い声が飛んだ。
「動くでない」
 ミルファはぎくりと身をすくめた。国王も衛兵も、凍てついたようになって成り行きを見守っている。
 サシャナリアは口の中でぶつぶつと呟きながらステッキの輪をすばやく回し続けた。
 ミルファはこんな時にかぎって後れ毛の触れている首筋がかゆくなり、恐れ多くも使者殿の言いつけを破ってそろりと手を動かした。それだけでも少しは気が紛れた。
 カチリ。
 音が止まり、サシャナリアがくるりとステッキを動かす。
「変換、形式g1046328、最大出力」
 ステッキの先がミルファに向いた。今度はまばゆい光が迸った。
 ミルファはきつく目を閉じた。なにか熱いものが全身を撫でていった。炎の中を通り抜けたように感じた。
 おそるおそる瞼をあげる。周囲が皆どよめいていた。ミルファは自分の体を見下ろした。服が焦げたり、溶けたりしていないかと。
 しかし何も変わっていなかった。レースひとつ縮れていなかった。
 だが、ミルファの足元を中心にして、絨毯が真っ黒になっていた。ちょうど円を描くようにして。
 焦げた臭いがじわりと広がっていく。今のは一体、なんの魔術だったのだろうか。自分はなにをされたのだろうか。ミルファはおののいた。
 逃げるように動いてしまった足の下、靴のあった部分だけが元の鮮やかな色を残していた。じわりと汗が滲んでくる。
 顔を上げると、驚愕に目を見開いているサシャナリアと視線があった。
「カラリエット凍結……!」
 少女が呟く。まったく聞き覚えのない言葉だった。
 ミルファは部屋中の注目を集めているのを感じた。それで、精一杯に口を開いた。
「あの、わたくし、なにもしておりません」
 まるで自分が彼女の邪魔をしたように見える、と思ったからだ。とんでもないことだ。こんな魔術を即座に防御するなんて、できるわけがないのに。
「し、使者殿!」
 国王のうわずった呼びかけに、サシャナリアが振り向く。
「ん? ああ、すまぬの。すぐに戻そう」
 彼女の声の調子は、すでに元の平坦なものになっていた。
 ステッキを逆に持ち、コンと先端で軽く絨毯を叩く。それだけのことで、絨毯はまったく元通りの色を取り戻した。ほとんど半分が焼け焦げていた絨毯が。どよめきはいっそう大きくなった。
 それがとても高度な魔術だと、皆が知っていたから。
 光や炎、水を出したりするのは、程度の差こそあれそれほど練度のいる技ではない。しかし、いったん形を変えた物を元に戻すのは、きわめて難しい。それが時の流れに反することだからだ。
 サシャナリアは涼しい顔をしていたが、国王は慌てて言葉を重ねた。
「そのような……! 絨毯などいくらでも代わりはあります。使者殿の魔力を徒に浪費されては、もったいのうございます」
「いや、気にすることはない。それより、この娘じゃ」
 ひたと見据えられて、ミルファはびくりと体を緊張させた。
「この国の魔術師は、帰還したそなたを検査したのではなかったか?」
「は、はい。ですけどあの、何も分からないと言われました……」
「ふん、ろくな人材がおらぬとみえる。ロージャーを連れてきたのは正解かもしれんな」
 じろじろと全身を見つめられ、ミルファは息をするのもはばかった。
「さて」
 トン、とサシャナリアがステッキで己の左手を叩く。話し始めるときの、それが癖のようだった。
「カラリエット凍結という術がある。これは遥か太古の術でな、大賢者府にさえ完全な資料は残されておらぬ。魔術師の力を奪うために考案された、魔術師殺しとも呼ばれる秘法なのじゃ。当然、禁呪に指定されておる。――もっとも、今となっては誰も扱うことはできぬのだが」
 話の先が読めず、ミルファはただ黙って話を聞いていた。
「そなたは現在、魔術を行使不能な状態にされておる。恐るべきことに、カラリエット凍結が完璧に編まれているのじゃ。二重に、しかも長い時間をかけて、全身に定着させられた痕跡がある」
「あた、わたくし、魔術なんてうまく扱えませんわ。そんなのなんの意味も」
「そしてカラリエット凍結は同時に、魔術への抵抗力を飛躍的に高める。当人に関わる魔力的な一切を無効にしてしまうのでな」
「そういえば……」
 リオが言っていた。今の君には魔法がかからない。
 額にあてられた冷たい手。間近にあった穏やかな右の瞳。それらが一気に脳裏によみがえり、そしてミルファははっと口をつぐんだ。
 サシャナリアは聞き逃さなかった。
「なんじゃ? 申してみよ」
「あ、あの……その」
 心の底まで見透かされそうだった。奥の歯がカチカチと鳴りそうになるのをこらえて、ミルファはどうにか喋った。
「わたくし、髪を染めようと思って――魔法薬を使いましたの。でも色は変わりませんでした。それと関係があるのでしょうか?」
 咄嗟についた嘘だったが、もっともらしく聞こえてくれただろうか。サシャナリアはうなずいた。
「うむ、薬も魔力に依っていれば同じこと。はじかれてしまうじゃろうの」
「ああ、それで……そうだったんですね。納得いたしました」
 言い繕いながら、ミルファは安堵していた。
 つまり、記憶は読まれなかったのだ。
 大賢者の孫がどんな魔術を使ったとしても、秘密は守られるのだ。
「案ずるには及ばぬぞ。半年もすれば術は解ける」
「え?」
 ミルファの心を凍り付かせるようなことを、さらりと彼女は言った。
「今すぐ解けぬこともないが、さすがにさすがに、骨が折れるじゃろうの。絨毯どころではない膨大な魔力を喰われてしまう。我としてもそれは避けたい。して――」
 口元にうっすらと笑みを浮かべ、少女は問いかける。

「そなたは本当にミルファ嬢か?」




           



2011.08.27 inserted by FC2 system