サシャナリア・レイニード。彼女に関する記述ならいくらでも残っている。この時はまだ賢人会南方管理局の代表で――といってもこれも相当な重職だ――あまり名も知られていなかったけれど、なんといっても後の大賢者だからね。
 レイニード一族は代々プラチナブロンドの髪で、彼女も例に漏れなかった。常に冷静で理性を重んじ、知性を重視し、無矛盾性を愛し、直感を排し、感情論を嫌った。
 彼女は天才的な魔術の才能を有していた。幼くして「島」に収められた膨大な量の古文書を読破してしまったとか、一度教わっただけで大魔術を使ってしまっただとか、逸話には事欠かない。昼界の歴史の中でも十指に入る偉人のひとりだ。
 大賢者となってからの業績では、閉鎖的だった島の一部を開放して、魔術の発展、普及に努めたことで広く知られている。
 まあ、そんな先の時代のことは、今回の話には関係ないからこのくらいにしておこう。


 玉座の間は極度の緊張に包まれていた。
 なんといっても大賢者府の使い、それも現大賢者の直系の孫がいるのである。なにかひとつでも間違いがあれば、たちどころに国ごと潰されてもおかしくない――もちろん大賢者府はそれほど横暴ではないが、そうすることが可能な力を持っているということだ。神を前にしているも同じだった。
「さて」
 右手のステッキを左の手のひらにトンと当て、サシャナリアはまっすぐに国王レナードを見た。射すくめるようなその視線に、彼はごくりと唾を飲んだ。
「果物でも頂こうかの」
「……は?」
「うまいのであろ。どうせかの娘が来るまで時間がかかる。せっかくこんな遠くまで来たのじゃ、たまには我も羽を伸ばしたいわ」
「はっ。ただいま!」
 国王の視線を受けて、騎士がまたひとり部屋を走り出ていった。
「ああ、久しぶりに光波乗なぞ使ってみたら肩がこった。ついでに喉がかわいた。適当な椅子をもて」
「あ、よろしければ玉座でも」
 国王が自分の椅子をすすめたが、少女は断った。
「いや、それはそちの場所じゃ。そのへんので構わぬ」
 かくして使者殿は玉座の間に臨時に設けられた特等席で旬の果実をつまみ、しぼりたてのジュースを供された。
「うむ、うまい」
「お褒めにあずかり恐縮です」
 国王はその間、決して玉座に近づかなかった。大賢者の一族のいるところでのんびり座っているなど、落ち着かないことこの上ないからだ。
 せめてこの場に神経の太い腹心、つまりサディアス・アクラが居てくれれば、と思ったが、間の悪いことに私用で休みをとっていた。妻の誕生日だから二人きりで過ごしたいとかなんとか言って。まったく。お前の孫娘に関わる問題だぞ。
 そんな国王の心中などおかまいなしに、サシャナリアは果汁ジュースをごくごくと飲み干し、ついでのように言った。
「おお、忘れておった。門のところにロージャーを落としてきたのじゃった。手の空いたときにでも回収してやるがよいぞ」


 ミルファは玉座の間へ文字通り駆けつけた。大賢者府がらみとなれば大抵の例外が許される。たとえば本宮の扉のど真ん前まで馬車をのりつけるとか、淑女がはしたなく廊下を走ったりとかそういう類の。
 馬車の中で着付けた正装はそのために少し乱れていた。
「面妖な」
 息を荒くしているミルファを眺めて、サシャナリアは言った。梨をしゃくしゃくと噛み砕いて飲み込むまでの間をたっぷり取ってから。
「ミルファ・アクラと申します。お呼び立てにより参りました」
「ふむ」
 ステッキ片手に、サシャナリアはミルファへ近づいた。
「なんとも見事な夕焼けじゃの。すっかり夜に染められたとみえる」
「え?」
 当然だけど、きみたちの世界でいう「夕方」とかいう概念はぼくたちの世界にはなかった。だから夕焼けという言葉も、ミルファは知らなかった。
 サシャナリアがミルファの赤い髪をすくう。
「そなた、記憶がないと申しておるそうじゃな」
 ぞくりとするものを背中に感じながら、ミルファは答えた。
「はい」
「本当かえ」
 一音一音区切るような、ゆっくりとした含みのある言葉だった。
 サシャナリアはミルファを見上げていた。背丈が小さいためだ。だが、その幼い顔立ちの中に、年齢相応の無邪気さはひとかけらも残っていなかった。
「はい。思い出せません」
 その瞳に射られることに耐えきれず、ミルファは膝を折った。深く礼をして詫びる。
「使者様には大変申し訳ありません。せっかくおいでくださいましたのに」
 くすくすと笑う声が頭上からふってきた。
 楽しそうな色はどこにもない。嘲りでもない。ただ音が笑いの形をとっている、というそれだけだった。
「そのように恐縮せずともよい。たとえ記憶しておらずとも、情報を引き出す方法などいくらでもある」
 ミルファは驚愕に目を見開いた。頭を下げていたのは幸いだった。
「眠っていても耳には外界の音が届く。体に触れたものは認識される。気を失っていても、そなたの中の魔力がその流れを覚えている」
 カチリ、という音が玉座の間に響いた。ミルファの耳にはひどく不吉に聞こえた。
 もしも、それが本当だとしたら、嘘はすぐにばれてしまう。全部知られてしまう。約束が守れなくなる。
 黄昏の者たちが危ない。あたしを信じてくれたのに。
 リオが危ない。魔族が生きているなんてわかったら。魔物がたくさん集まっていて、大きな竜まで従えているなんて、知られたら。もちろん大騒ぎだ。そして、そうなったら。
 ナルジフが心配していたのは、こういうことだったのだ。
 心臓をわしづかみにされたようだった。
「それほどに闇に触れて、何事もないなどあるものか」
 どうしよう、どうしよう。考えを、雑音が邪魔する。ミルファは焦った。
 カチカチカチカチ、途切れることなく乾いた音が続いていく。神経をひっかいていく。
「我々に隠し事はできぬのじゃよ」
 ミルファはできるだけ表情を消して、その音の正体を確かめようとした。そろりと頭を上げた。
 小さな手の中で、ステッキが鳴っていた。




           



2011.08.20 inserted by FC2 system