リオを呼ばなくちゃ。
思いついたそのことを実行するだけの時間もなかった。
何かがとびかかってきてミルファは仰向けに倒された。悲鳴さえ上げられなかった。
危険だと言われていたのに。せっかく魔法をかけてもらったのに。自分の考えなしのせいだと思ったらいてもたってもいられなくて、駆け出していたのだ。置かれている状況も忘れて衝動で動くなんて。自業自得だ。愚かにもほどがある。
死ぬ。
「止まれ!」
リオの声だと頭が理解する頃にはのしかかっていた重みが消えていた。風もないのに吹き飛んでいったのだ。同時にあったのは何かの裂ける音。服がいくらか引きちぎられたようだ。
殺されるところだった。
でも助かった。リオが助けてくれた。ちゃんと気づいてくれた。
忘れていた呼吸が一気に荒くなる。体が勝手に震えだす。
「ミルファ」
転んだところでは光までかなりの距離があったはずなのに、リオはもう傍にいた。青白い灯りと一緒に。肩を支えるようにして体を起こしてくれた。
安堵のあまり、ミルファはその首に両手を伸ばして抱きついた。
「これ、小娘! 無礼じゃぞ」
すぐ傍でダミ声がしゃべった。リオの頭に乗ったままついてきたのだろう。
「ナルジフ、いいんだ。エンディア、お客さんに説明してあげて。この子は僕の友だちだ。仲間になるなら手を出すなって。きみ、怪我はない?」
声をかけられたのはおそらく、ミルファがぶつかった魔物だ。
「ヘ、ヘェ……。タイシタコトハネェデヤス」
「そう、よかった。ミルファ、もう大丈夫だよ。ごめんね」
リオが背中を軽く叩いてくれたが、まだ歯が噛み合わなくて、うまく返事ができなかった。
「もちろん結構ですが、その新入りはほとんど逃げてしまったようですよ」
応じた低い声はエンディアだ。
「仕方ないな」
ため息のような音が聞こえて、ミルファはますます自己嫌悪に陥る。
「おい、氷の。こいつはなんの茶番だ?」
そこへ冷たい声が降ってきた。黄昏の者だ。真ん中に立っていたリーダーだ。
そうだ、話をしなければ。
勝手に出てきた涙を拭いながら、ミルファは必死で自分の両脚をはげまし、リオの腕から逃れた。
「エンディア。おまえとは長い付き合いだが、今回ばかりは簡単に許すわけにはいかねぇ――ン、なんだ」
「リオは盗んでないわ。あたしがあげたの!」
なんとか声を出さなければと力みすぎたのか、半ば叫ぶようになってしまった。
「あン?」
足を踏ん張って向かい合った黄昏の者は、間近で見ると思っていた以上に大きかった。背も高いが体の厚さも並ではない。どういう鍛え方をしたらこうなるのか、筋肉の盛り上がりが服の上からでもわかるほどだ。
「おまえ、魔族……じゃねぇやな」
「あなた……獣人?」
まっすぐに顔を見上げてはじめてわかった。濃い髭が顔の大部分を覆っているだけでなく、犬のような耳が頭上についているのが。
「そう呼ばれることもあるな」
こんなところで獣人を見るとは思わなかった。これまで市中に出かけることがほとんどなかったミルファは、獣人と面と向かって話すのは初めてだった――まあ、この時代、貴族ならたいていはそうなるんだけど。
来ているのは、もめているのは黄昏の者だったはずで、だとしたらこの獣人の男は黄昏の者のはずで、つまり獣人と黄昏の者というのは同じ意味だったのだ、とミルファは理解し、そして言った。
「あっ、ごめんなさい。ひょっとして嫌だったかしら。黄昏の者、と呼んだ方がいいのね?」
男は珍しいものを見るように目を眇めた。
「おまえも人間と呼ばれたくはないだろう。個ではなく集を表す言葉だ」
ミルファは小さく鼻をすすった。
「本当、どちらも失礼ね。あたしはミルファよ」
「…………レヌカ」
そう名乗ったリーダーの後ろから、ひょろっとした体格の男が近づいてきた。こちらは耳はないが、ふさふさのしっぽがついている。目がつり上がっていて、ああ、狐だわ、とミルファは思った。
「そうか。あんたが、三万のミルファ・アクラって貴族の嬢ちゃんか。なるほどねぇ、いい女だ」
「三万?」
ミルファの疑問には答えず、狐の男はミルファの後ろへと言葉を投げた。
「おい。いったいどうやって掠ってきたんだ? 嫁さんにでもすんのか?」
ミルファは慌てて振り返った。リオはまだ座っていた。ミルファのその仕草ではじめて今のが自分に向けられた質問だったと気づいたように、ん? と視線をさまよわせてそして、のんびりと返事をした。
「あ、違うよ」
よいしょ、と立ちあがる。
「ミルファのネックレス、駄目だったの? 君たちはそれで怒ってるんだ」
「昼界の物の価値は我らにはわからぬ。が、そなたらはこちらで提示した額に納得して引き取ったのではなかったか」
オオカミがリオの言葉を継いだ。
「金の問題じゃねぇんだよ」
狐男が首を振る。
「オークションにでもかかって、あたしのだってわかる人がいた。それで持ち込んだあなたたちが誘拐犯ってことにされちゃった。そうね?」
「あんたなりの救難信号だったってことか」
レヌカが言った。とんでもなかった。ミルファは力なく首を振る。
「あたしバカなのよ。ほんとに、とことん……」
あれは一つしかないネックレスだ。想像力が足りないからこうなる。
「知ってる人があれを見つけたらどういう騒ぎになるか、とか、そんなこと考えてもいなかったの。ちょっとした恩返しくらいの気持ちだった」
「そう、恩返ししてたんだ、僕たちは」
「ハァ?」
レヌカがリオの横やりに顔をしかめる。
「僕たちは三万も払ってないし、ミルファはお嫁さんにはできないよ。お兄さんと結婚するんだよね」
まるきり見当違いの補足をするリオに、ミルファはまたぐるんと振り返る羽目になった。
「ちがっ……、違うわよ、バッカじゃないの?!」
「え、だって」
「あたしの話をどう聞いてたのよ!」
「こりゃ、小娘! 愚弄するか!」
「カエルさんは黙っててよ!」
「カエルさんじゃと?! この儂に向かってカエルさんじゃと?!」
ナルジフは口から火を吹いたが、リオの髪をちょろっと焦がしただけだった。
不毛な言い争いをはじめたミルファたちを眺めて、レヌカは長いため息を落とした。
「……どうもあんたは誘拐されてきたって感じじゃねぇな。とりあえず落ち着いて話を聞かせちゃくんねぇか」
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