22


 

 




 ハンカチを洗っていたら、リオがやってきた。もうお茶の時間かしら、それとも新しい歌を教えてとねだりにきたのかしら。ミルファはそう考えたが、どうやらどちらも違っていたらしい。
「どうかな?」
 リオが言うと、もうひとつの声がこたえた。
「大丈夫でさァ」
 甲高いだみ声だ。ミルファは思わずあたりを見回した。リオしかいないように見えるのに。
 リオはそんなミルファを見て笑顔になり、左手を持ち上げてみせた。
「ほんとにまぶしくなくなりましたねェ。黄昏のみてえになっちまって、まァ」
 リオの左の袖口から頭をのぞかせたのは、トカゲだった。
 ミルファにはもちろんトカゲの見分けなんかつかない。そもそも、ロージャーの研究室で見たのがどんなトカゲだったのかすら、憶えていない。
 けれど、これがあの時のトカゲに違いない。リオがわざわざ連れてきたのだから。
 ミルファの予想通りに、トカゲは名乗った。
「あっしはウーシアン。お嬢さん、遅くなっちまいましたけど、御礼言上に参りましたよ」
「やっぱり、あなたがそうなのね! はじめまして、じゃないわね、こんにちは。あたしはミルファよ」
 リオの手に顔を近づけて、ミルファは挨拶した。
「いやいや、こりゃご丁寧に。おかげ様でこの通り、ピンシャンしておりまさァ。感謝感激! お世話んなりやした」
 ミルファは握手のかわりに指を一本差し出した。トカゲに自分から触るなんて気持ち悪い、と以前なら思ったかもしれないが、それが愉快に喋りかけてくる生き物となれば話は別だ。
「お礼なら、あたしも言わなきゃいけないわ。シャンプーに石鹸に、それからハサミをありがとう」
 ウーシアンは戸惑ったように頭を動かしたが、ミルファの指の上にぺたりと手を載せた。
「お安いご用でさァ。命のかわりになるものなんて、ひとつもありゃしないんですから」
「うん、ほんとに平気そうだね。よかった」
 リオがそう言うと、ウーシアンはリオの袖をよじ登り、肩に到着した。
「えェ。ニオイもないし、これっくらいならサウザーでも逃げだしゃしませんね」
「じゃあ約束通り、引っ越しを考えなきゃ」
 ミルファは思わずリオの手を握った。
「ほんと? あたしここから出られるの?」
「うん。すっかり光が抜けたみたいだからね」
 このじめじめした地下からやっと解放される! そう考えただけで、吸っている空気の味さえ変わった気がした。
「でも出られるっていっても、塔の中だけだよ。仲間はみんな君のことを知ってるから大丈夫だけど、外には仲間じゃないのもいるから。みつかったらミルファ、食べられちゃうかも。気をつけて」
 ミルファはぞっと身震いをした。
「絶対に外には出ないわ」
「うん。そうしてくれると僕も安心だ」
 リオは真面目な顔で言った。
「でもなにかあったら呼んでね。すぐに助けに行くから」
「ありがとう」
 食事係のリオがどのくらい役に立つのかはわからないが、気持ちが嬉しかった。
「いいんだよ、友だちだからね」
「塔の上の部屋なら、パットに掃除をさせておきやしたよォ。大将のご指示通りに」
 ウーシアンが尻尾をゆらして言った。
「ほんと? ありがたいな」
 リオは上を見た。ミルファもつられて首を動かしたが、真っ暗にしか見えない。
「荷物は後で動かすとして。とりあえず、一番風通しのいい……そうだ、屋上にいってみようか」
 飛びあがりたいほど嬉しかったが、不安も残る申し出だった。
「それって外じゃないの?」
「外だけど、僕が一緒にいくから大丈夫」
 言うなり、リオはミルファを抱き上げた。
「ちょ、ちょっと!」
 細いくせに力はある。横抱きにされたミルファがばたついても、びくともしない。
「怖いの? 大丈夫、危なくないよ。少しだけ我慢して」
 そういえばここは途中まで階段なんかないのだった。
 リオはランプをひとつ外すと、ひとりで帰っていく時いつもそうしていたように床を蹴り、途切れた螺旋階段までひとっ飛びした。ほんとうに猫みたいに身軽だ。
「前から思ってたけど、すごいわね。まるで羽が生えてるみたい」
「僕も羽があればよかったんだけど、ついてないんだよ」
 リオは至極残念そうに答えた。
「ついてないのは見ればわかるわよ」
 ミルファは笑った。
「そう? でも翼を出せるやつもいるよ。いた……のかな。いるのかな」
「どっちよ」
 リオの肩から、ウーシアンがするりと降りた。
「そいじゃ、あっしはみんなに報せてきまさァ」
 ウーシアンは石積みの壁の隙間に消えていった。リオはミルファを抱きかかえたまま、すたすたと螺旋階段を登った。ミルファはリオにしがみついたまま黙っていた。おろしてと言わなかったのは、自分で歩くと踏み外しそうで怖かったからだ。


 扉は石でできていた。横にずらして開ける時、ざりざりと音がした。
 頭を低くし、くぐって外に出ると、そこは廊下だった。等間隔に窓穴があり、そこから土が入ってきているようで、床の半分は土砂に埋もれている。
「ここはまだ下の方だから。どんどん行くよ」
 リオの後についてミルファは歩いた。手渡された青白いランプひとつでは視界が心許ない。はぐれたらどこに行けばいいかわからないのに、リオときたら迷いなく歩いていってしまう。
 背後から鳥が飛び立ったような音がして、ミルファはびくりと体をこわばらせた。
「やあ、サウザー。まぶしくない?」
「なんでぇ! なんでぇ! おれっちは寝てるところだったんだぜ! それがウーシアンのやつ、起こしやがって! ふぅ……ちっと寝てくらぁ」
「行ってらっしゃい」
 ふらふらと飛び去ったのは、よく見えなかったがどうやらコウモリだ。リオの話に何度か名前が出てきたからわかる。眠い時はいつも機嫌が悪いサウザー。
 挨拶しようと思ったのに、声もかけられなかった。次、誰かに会えたらがんばろう。ミルファはそう決意したが、魔物たちはミルファとはち合わせるとすぐにさがっていってしまう。リオと会話していったサウザーなどまだましな方だった。
「……やっぱり、歓迎はされてないのね。それとも、この灯りがいけないの?」
 狭い穴の底から抜け出せた喜びも、なんだかしぼんでいってしまう。
「え、なに?」
 呟くと、先を歩いていたリオが足を止めた。
「この灯り、みんなが嫌がる?」
「ああ。大丈夫だよ、それは闇の魔力を燃やしてるだけ。光とは違うよ。だから痛くない」
「そうなの」
「僕らからすると、そうだな、甘い感じのいい香りがしてる」
 ミルファは思わずランプに顔を近づけたが、ほのかにあたたかいだけだった。
「いい香り? なのにみんな逃げちゃうのは、やっぱり……」
 ミルファはため息をついた。
「あたし、仲良くしようと思っていたの。まも、その、リオの仲間と。でも避けられちゃうのね」
 リオは首をかしげて、じっとミルファを見た。
「まぶしくなくなっても、やっぱり仲間とは違うものね。仕方ない、か」
 みんながみんな、ウーシアンのように好意的なわけではない。というか多分、ウーシアンだけが特別なのだ。「恩人」だから。別に助けようと思ってそうしたわけじゃなくて、ただの偶然なのに。
「ミルファ、みんなと友だちになりたいの?」
「え。そんな、ええと、友だちって言うか……ただ、リオの話で……」
 一方的によく知っているような気になっていた。
「仲が良さそうで、いいなぁって」
「やっぱり、ミルファはすごいね」
 またしても「すごい」だ。
「意味がわからないんだけど」
「ほんとにすごいよ。大丈夫、ミルファならすぐ仲良くなれるよ」
「……そんなことないわ」
 友だちを作るのは苦手だ。そうなのだ。思い出してしまった。
「早く屋上に行きましょう? でもあたし、足元が不安だから、できればもう少しゆっくり歩いてほしいんだけど」
「そっか。うん」
 リオが手を伸ばしてきた。
「なに?」
「このほうが安全。そうでしょ?」
 どうやら、つかまれということらしい。
「……どうも、ありがとう」
 手を繋いで長い廊下を歩いた。どこまで行っても暗くて、小さな魔物たちがかさこそと遠ざかっていく音だけが時々聞こえた。





           



2011.02.05 inserted by FC2 system