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 兄は世界一の男性だ。ミルファはそう信じていた。
 なにが一番なのかといえば、優しさとか思いやりの深さだとか、感性でしか比べようのない美点においてなのだったが、少なくともミルファにとっては兄のセイルが疑いようもなく最上位だった。
 そんな兄が、年頃の令嬢たちから「面白味のないふつうの人」という評価を受けていることをミルファは知っていた。彼女たちには見る目がない。
 でも、それでいいのだ。兄のことを一番に思っているのは自分だけでいい。兄もミルファを世界一大切にしてくれる。
 そう思っていたのに、セイルは結婚して、奥さんを作ってしまった。
 もちろん、兄妹は結婚できないことくらい、ミルファも知っている。兄への愛情は、そういう劣情とは全く別種のものだ。サラはからかうけれど、さすがにこの年で、家族愛と恋愛感情を混同するほど幼くはない。お嫁さんにして、なんて言っていたのは子どもの頃だけだ。
 けれど、やはり、面白くはない。そもそも、相手が悪い。
 いくら評価が芳しくないとはいえ、兄はアクラ家の跡取りなのだ。寄ってくる女はいくらでもいたし、サリアン中のどの令嬢だって望めば得られたはずだ。そう、今のサリアンで一番の女性――サラですら。もちろんサラと兄は従兄妹だけれど、祖父が認めれば問題などなかったはずだ。二人は仲が良かったし、サラがお姉様になってくれたなら、と夢想したこともあった。無論口には出さなかったが。
 けれどサラが十六になるより早く、兄は結婚を決めてしまった。
 名前だけの貧乏貴族で、社交界での評判も悪い、黒い髪の女と!
 だいいち背が高すぎる。ふくよかさにも欠けるし、まるで痩せガラスだ。ミルファはこの結婚に大反対した。当然家族も同意してくれるものと思っていたが、結果は逆で、話はとんとん拍子にまとまってしまった。唯一ミルファの意見に耳を貸してくれた父ですら、彼女に会いに行ってから旗色を変えてしまった。いいお嬢さんだ、セイルは見る目がある、とかなんとか言って。
 このとき家族の誰も味方してくれなかったことを、ミルファはいまだに根に持っている。
 なにより「針金のジェイニー」を花嫁として迎えたことで、社交界で兄のことまでひそひそと笑いの種にされるのがたまらなかった。父は女たちのうわさ話を聞かないから、平気でいられるのだ。
「だからね、わかる? このくやしさが! サラまでジェイニーをかばうし、もう、この件に関してはあたしに味方はいなかったの。そりゃあね、ジェイニーを悪く言っている女の人たちなら同意してくれたかもしれないわ。でもあたし、あの人たち嫌いなの!」
「ふーん」
 リオの相づちが気のないものだったので、ミルファははっと我に返った。
「なんて……、あんたにこんな話してもわからないわよね。ごめんなさい」
「うん。全然わからない」
 あっさりとリオは肯定した。
「でも、お兄さんか。きょうだいの仲がよくて、いいね」
「そう?」
「そうだよ。僕なんか弟に食べられそうになったことあったし」
「ええっ!」
「よく憶えてないけど、痛かったなぁ」
 弟にまでそんな扱いを受けるとか、こいつはどこまで虐げられているのだろうか。ミルファは深く同情した。大して気にしていなさそうなところがまたすごいが。
「ごめんね。せっかく話してくれたのに、わからなくて」
 そんな風に鈍いのに、ほんとうにすまなさそうに言うから、ミルファは自然と笑みを浮かべてしまうのだった。
「いいの。なんかすっきりしたわ、全部話せて。聞いてくれてありがとう」
「どういたしまして」


 サラやロージャーが救出に向かってくれているなどとはつゆ知らず、ミルファは夜での生活にすっかり慣れきっていた。もちろん不満はあったが、その不満のある状態に慣れたのである。
「ねえ、ミルファの家ってサリアンのお城の近くなんだよね?」
「ええ、別邸はね。本邸は領地の方だけど」
 相変わらず話し相手はリオしかいなかったが、ストレス発散には申し分なかった。楽しそうに通ってきてくれる上、気を遣う必要がどこにもないので、誰にもしないような話でもぺらぺら喋れたのだ。肩のこらない会話というのは、それだけで貴重なものである。
「ふたつあるの? そうか、それで間違えたのかなぁ……」
「なんの話?」
 ミルファは食後のお茶を楽しんでいた。といっても気分だけで、ティーカップの中身は水だった。少し離れた泉から汲んできているとのことで、味は悪くはない。これも慣れだろう。
「実は、パットが手紙を出したらしいんだよ。でも返事がないって」
「手紙? うちに?」
「うん」
「パットって……確か、小人の? なんで勝手に?」
 その手紙というのはもちろん、あのラクガキ扱いされた紙切れのことだ。
「えっと、話していいのかなぁ。その……怒るかも」
「いいから、言ってごらんなさいよ。気になるでしょ」
「うん、じゃあ先に謝っておく。ごめんなさい」
「謝るのは怒ってからにしてよ」
「そっか。そうだね、おかしいね」
 リオは「お付き合い」だとミルファに言われて、同じように水入りのカップを持たされていた。その水を一口すすって、リオはため息をつく。
「うち、財政難なんだよね」
「はぁ」
「仲間が集まりすぎちゃって、ごはん足りないんだ。ほんとはミルファが使えそうなきれいな鏡台なんかも前はあったんだよ。でも売っちゃった。この建物の中にいっぱい残ってた、武器とか、使えそうなものはだいたいさ、引き取ってもらって、それでお金に換えて、昼界からお肉とか買ってたんだけど……」
「ちょっ、ちょっと待って」
 ミルファは家庭教師相手にするように、片手をあげて彼の話を制した。
「どうやって売り買いするのよ。向こうには行けないのよね? それもウーシアンのような小さいのがおつかいするの?」
「ううん、さすがに鏡台は運べない。黄昏の者に頼むんだよ」
「たそがれの……?」
 聞いたことのない単語に、ミルファは首をかしげた。
「うん。黄昏の者は昼も夜も平気なんだよ。それで、彼らだけの秘密の通り道を知ってて、昼と夜を行き来してるんだ」
 ミルファは仰天した。そんな話、授業では習わなかった。
「そ、それをどうしてもっと早く言わないのよ! あたしを連れて帰ってもらえないの?」
「ええっ、ああ、そうか!」
 リオは初めて気づいたようで、右の目を丸くしたが、すぐに困ったように視線をさまよわせた。
「うーん、でも無理かも。絶対秘密らしいし。彼らは約束を守ることにはすごく厳しいんだ。僕らのことを信用してもらうまでもだいぶかかったんだよ」
「なんだ、そうなのね……」
 思わず立ちあがっていたミルファは、しょんぼりと腰掛けなおした。
「そんなにがっかりしないで。ごめんね、ミルファ」
「別に、あんたのせいじゃないわよ」
「でもごめんね。あのさ、今度黄昏の者たちが来たら、色々頼んであげるよ。ミルファが欲しがってた……なんだっけ、こしょう?」
「買えるの?!」
「普通に市場に売ってるようなものなら」
「売ってる、売ってるわ! あと、ソースとそれから、あたしお芋も好きよ。あれなら保つから持ってこられるんじゃないかしら。ついでにお茶っ葉も! これでほんとのお茶会ができるわ。それと針と糸も欲しいの。布なら端切れがあるけど、肝心のそれがないんだもの。あればあんたの服ももう少しましにしてあげられるし」
 ミルファが花嫁修業の一環として唯一まともに習得したのが刺繍やかぎ編みをはじめとする裁縫だった。指先の器用さなら自信がある。
「ごめん、売ってるだけじゃなくて、あんまり高くないもので」
 リオは肩をすくめた。
「胡椒くらいならそんなに……。待って、買い取ってももらえるのよね?」
 ミルファはベッドに走り寄った。それは裏向きに倒したタンスだった。――光の国に眠りはなかったから、この建物のどこを探してもベッドはなかったんだよ。
 しばらく使うことはないと思って、ミルファは身につけてきた物をすべてこの中にしまいこんでいたのだった。リオの手を借りてひっくり返し、彼女は引き出しを開けた。
「これよ、これ。服はさすがに、帰る時あれじゃなかったら恥ずかしいから。売ろうにももう汚れちゃってるし。でもアクセサリーならいいわ!」
 そう言ってミルファが掴みだしたのはネックレスだった。
「どうせ誰も見ないんだし、今は調味料の方が大事だわ。虹の国の一流の細工師が半年かけて作った物だそうよ。少なくとも金貨八百はするわ! 足元見られないように、高く売りつけてきてね」





           



2011.01.01 inserted by FC2 system