「変だわ……」
とても変だ。まるで夢のように、なにもかもが。
両のてのひらでぱちんと頬を叩いてみたが、目は覚めてくれなかった。いや、覚めていた。
もしかして、悪い魔術でもかけられているんだろうか。
突然、冷たい風が吹いた。ドレスの裾がめくれ、髪が乱れるほどの強さだった。
「はい、これなら少しましになるんじゃない?」
ふわりと背からなにかを被せられた。触れてみると毛皮のようだった。体に巻き付けると、確かに暖かい。
さっきの男だと声でわかる。
足音も立てずに戻ってきた。
「あ……ありがとう」
ふってわいたとはこのことだ。男に対する不信感がいや増したが、寒さのほぐれたことと独りでなくなった安堵とで、ミルファは思わず礼を言った。
「どういたしまして。遅くなってごめんね」
穏やかな調子の声だ。それだけなら、優しく誠実な青年をイメージさせた。けれど怪しすぎる。親切にすら裏があるように思えた。
「あの、夜はもう引いたの?」
「夜はまだここにあるよ」
相変わらず、この男の話はどこかずれている。
もしかして。
もしかしてただ魔術をかけられているだけで、視力を失ってはいないのかもしれない。この人は悪者の一味で、あたしはどさくさに紛れてさらわれてきたのかも――
ようやく心の中で推論が組み上がると、ミルファの中で男を警戒する気持ちが強くなった。
じりじりと後退する。こんなことならもう少し真面目に魔法を習っておくんだった。武器になるようなものは何も持っていない。せめて髪留めをはずして櫛の部分でひっかいてやれば痛いかしら。
足が敷物からはみだした。途端にずるりとかかとが滑る。小さく悲鳴をあげたミルファの腕を、無造作に男がつかんだ。
「危ないよ」
力強いが冷たい手だった。
振りほどかなくてはと思いつつ、暗闇の中から恐怖が迫ってきて、ミルファはそれ以上動けずにいた。
チカリと光るものがすぐ近くにあった。はじめて「見えた」それを、ミルファは凝視した。緑と紫の混じったような、円くて暗い光だ。ゆらり揺れる炎のようなその中に、小さくミルファ自身の顔が映った。
これは、目だ。
ふたつでなくひとつだけの目。それが虚空に浮き上がり、丸くぎらぎらとしてミルファの姿を映している。
悲鳴は声にならなかった。背筋から駆け上がった恐怖が頬にまで伝わった。これは、人じゃない。人のはずがない。
「ああ、そうか。君は見えていないんだね」
きっと魔物だ。そうに違いない。化けているのか人の皮をかぶっているのか、ともかく人に似た格好をしていることだけは確かだけれど。
だって手の感じが、冷たいけれど人間の手だ。声の降ってくる高さも、不気味な片目の位置も、まるで人と変わらない。
「気が付かなかった。考えてみたら当たり前なのに、どうかしてるな……それじゃ怖いよね。待って、なにか取ってくるから」
手が離れて、ミルファは自由になった。同時に、光る目もすうっと見えなくなる。
それまで恐怖を感じていたはずなのに、ミルファは男の――いや、魔物の離れていくのが急に不安になった。またこの暗闇の中にひとりで取り残されてしまう。
これではさっきと同じだ。必要なのは物ではなくて説明なのに。
「待って!」
ミルファは思い切って大声を出した。手を伸ばして空をつかみ、よろめくとどこからか彼の腕が抱きとめてくれた。
やっぱり人間の体だ、これは。
そう思いながら、不気味な目を見ないように下を向いたまま、ミルファは訊いた。
「ここはどこなの?」
さて、素直に答えるだろうかと思ったが、あっさりと返事があった。
「氷の塔だよ」
どこだそれは。
「あたしが訊きたいのは、建物の名前じゃなくて、それがどこに建っているかってことよ。あたしはサリアンの王宮にいたはずよ!」
「……うん。そうらしいね」
そうか、そうなんだ。うん、そうだ。なにやらぶつぶつと魔物は繰り返し、ひとりで納得した。そんなところまで、人間くさい。ミルファを元のように立たせる仕草も、丁寧で紳士的だ――気味の悪いことに。
「まったく、僕はだめだな。順序を間違えるなんて。そうなんだ、説明しないとわからないよね」
いや、もうわかっている。冷静になりはじめたミルファは思った。
こんな闇は現実にはありえない。
少なくとも昼界にはありえない。
だからここは夜界に違いない。大賢者が太陽を落っことしてしまったのでないかぎり。
夜界に迷い込んで帰ってきた人間はいない。
彼らがどうなったのか誰も知らない。帰ってきていないのだから当たり前だ。死んだ後でどうなるのか、生きている人間が知らないのと同じだ。
けれど想像することはできる。そしてミルファが想像するまでもなく、彼らの「その後」にまつわる話は山ほどあった。魔物に食われるとか、一生土の下で働かされるとか、体がひからびて死に至るとか、とにかくありがたくもない末路ばかりだ。
ミルファは体の震えを止めようと必死だった。気づかれないように、石のようにじっとしていたいと思うのに、歯までがガチガチと鳴り出す始末だ。
「なにから話せばいいのかな。えっと、場所だよね。うん。なんというか、手違いだ。僕らはウーシアンをこっちへ呼ぼうとしたんだよ。夜を動かしてさ。大昔の魔術で位置を特定して、あとはピピが穴をあけてくれた」
わけのわからない話をはじめた魔物をよそに、ミルファは必死で考え続けた。
敷物を用意したのもこのまだら目の魔物だろうか。ざらざらの濡れた床に転がされなかったことを感謝すべきなんだろうか。他には誰かいないんだろうか。
この闇だ。まだ最初に聞こえたあの声の主がいるかもしれない。どこかから別の誰かが見ているのかもしれない。ともかくこいつ一匹とは限らない。
あたしは閉じこめられているんだ。
深い穴の中に放り込まれて。
優しく言葉をかけておきながら、この魔物はあたしが逃げないようにしっかり準備をしている。これは罠だ。こいつはあたしを騙そうとしてる。
ミルファはそう結論づけた。どうしてわざわざ騙すのかは知らない。けれどほかに考えられないではないか。
「だけどウーシアンをこっちに引っ張った時、君がたまたまそばにいてさ。つまり、巻き込んでしまったんだ」
叫んで逃げ出したってきっと無駄だ。見えないのに逃げられるわけがない。助けが来るはずもない。
ミルファは片手で唇をおさえた。こわばっている表情を見られないように。考えたのは、どうすればこの魔物に喰われずにすむかということだった。支えられた手の感じ、頭の高さ、優しい調子の声、どれをとっても、舞踏会でミルファに翻弄される種類の男――つまり、育ちのいい若い貴族の男と大差なかった。そんな印象をもつのは、さきほどからこの魔物が親切そうに装っているからだ。なんのために? それはわからない。
とりあえず様子をみよう。騙されないように、油断しないように気をつけて、相手をしよう。
幸い、まだらの目以外は人間の男みたいに感じる。男ならなにも恐れることはない。女と違って、いつでも思い通りになる生き物だ。
声のままの若い男だと思って、振る舞えばいい。どうせ真っ暗なのだから目を瞑っていればいい。
さあ、騙しあいをしようか。
舞踏会に挑む心地で、ミルファは奥歯を噛みしめ、根性で震えを止めた。
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